私がまだ学生時代、歴史小僧だった友達のN君からあるクイズを出されたことがあります。

そのクイズとは「信長を殺したのは明智光秀ですが、明智光秀を殺したのは誰でしょうか?」という問題。

 

私は秀吉と答えようとして、はたと考えました。

いや、いつも俺と張り合ってくる歴史小僧のN君のこと、そんな簡単な問題じゃないはず。

確かに光秀は秀吉に負けたけど殺したのは正確には秀吉ではない。そうなると正しい答えは……。

 

「確か…落ち武者狩りの農民」

「ブブーッ、( ^ω^ )答えは溝尾庄兵衛でしたー」

 

一瞬「えっ?」と思いましたが私はすぐに騙されたことを理解しました。

溝尾茂朝とは明智光秀の家臣のひとりで、農民に刺されて瀕死だった光秀を介錯したとされる人物です。

 

つまりこれは、農民という答えに行き着いて慢心した僕をさらにはめる二重トラップだったというわけのですw

N君……なかなか侮れないやつ…。

 

話がズレましたが、明智光秀を介錯し、その首を隠すというという非常に重要な役割を成した溝尾庄兵衛。

すなわち溝尾茂朝なのですが、この人は実は非常にわからないことの多い謎多き人物であります。

 

果たしてどういう人物なのか?

今回は様々な記録を縫い合わせて「明智五宿老」の一人に数えられる溝尾茂朝の全体像を見ていきましょう。

 

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溝尾茂朝は光秀の古参の家臣?謎に包まれた前半生

溝尾茂朝が生まれたのは1538年だと言われています。

戦国武将の生い立ちが不明というのは割とよくある話ですが、彼の場合はそれがひどくて生い立ちどころか名前すらもいまいち怪しいのです。

 

溝尾茂朝(と思われる人物)が史料に出てくるのは1568年。

溝尾庄兵衛という名前で光秀の家人となっていたというのが最初の記録です。

 

1568年に明智光秀が織田信長と足利義昭の仲介役をしていた時には、既に光秀の家人となっていたようで、「細川家記」という資料に名前が出てきています。

 

なので少なくとも茂朝は、明智光秀が越前にいた頃から使えていたことになります。

どういう経緯で光秀に仕えることになったかは不明ですが、そう考えると光秀の家来の中でも最古参のメンバーの一人ということができます。

 

光秀は浪人となって苦労した時期があるので、茂朝は若き頃の光秀を支えた信頼のできる家臣の一人であることは間違いないと思います。

 

越前の代官になるも一向一揆に敗北・・

茂朝の名前が記録にはっきりと姿を現すようになるのは1573年から。

ちょうどこの年は信長と朝倉義景との間の戦いが終わった頃です。

 

朝倉義景を一乗谷で攻め滅ぼすと、信長や部下たちは戦後処理に追われるようになります。

その中で問題となったのが「攻め滅ぼした越前を誰に統治させるか?」ということ。

 

この時に白羽の矢が立ったのが前波吉継という元々は朝倉家の家臣だった人物です。

朝倉家の家臣だったわけですから越前のことは熟知しており越前を任せるにはうって付けの人物。

しかし、朝倉家はもともと敵対していた家柄なので、信長は吉継のことを信用しきっていた訳ではありません。

 

そこで吉継を監視するような役割(目付け役)の3人が選ばれ、その中の1人として溝尾茂朝の名前が出てきます。

この3人は「北庄ノ奉行信長殿御内三人衆」と呼ばれ、ほかの2人は木下祐久(すけひさ)と津田元嘉(もとよし)という人物でした。

 

これらの人物とともに茂朝は越前の政務を行いつつ吉継を監視していた訳です。

 

そんな中、茂朝は越前の一向一揆衆と戦うことになります。

原因は朝倉家から織田家にくら替えした富田長繁という人物と前波吉継の不仲でした。

 

長繁は越前の一向一揆を扇動して吉継たちに襲いかかったのです。

この戦いに茂朝たちは吉継側で参戦しますが、相手は上杉謙信や信長でさえも手を焼く一向一揆。

吉継は殺害され、茂朝ら3人も攻められて命からがら京都へと逃げ帰ります。

 

このあと一向一揆衆は越前に独立した勢力圏を築いてしまいます。

そもそも茂朝たちだけでどうにかできる敵ではなかったのかもしれませんが、結局は一揆を鎮圧することができず、茂朝は越前から逃げ帰ってくることになります。

 

丹波攻めから本能寺の変まで

翌年、茂朝は光秀の丹波攻めに従軍。

光秀と共に波多野秀治や赤井直正を打ち破り、丹波平定を成し遂げます。

 

そして1582年には光秀と一緒に家康の接待も行っているのですが、その後に、光秀から謀反を起こそうと思っていることを告げられます。

茂朝は光秀が信長を討つことを最初に打ち明けた家臣の一人だったようです。

(他には明智秀満斎藤利三、藤田行政、明智光忠がいたとされています。)

 

本能寺跡の石碑の写真

 

本能寺の変には実行部隊として参加していたと思うのですが、その辺りは調べてもよく分かりませんでした。

そしてその後、山崎の戦いで再び溝尾茂朝の名前が登場します。

 

落武者狩りで重傷を負った光秀の介錯を務める

本能寺の変の後、光秀は毛利攻めから驚くべきスピードで戻ってきた秀吉と山崎の地で戦います。

しかし、思うように味方が集まらなかった光秀は敗北。

再起をはかるため、一度坂本城に戻ることを決意します。

 

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そして、その傍らには溝尾茂朝の姿もありました。

坂本に戻る途中にある小栗栖(おぐるす)という場所を通過していた光秀。

その時、突然竹槍を持った地元の農民が襲いかかってきました。

 

明智藪の写真
明智光秀の最期の地といわれる小栗栖の明智藪

 

これは「落武者狩り」と呼ばれる行為で、当時は戦に敗れた武将から鎧や兜、刀などを奪う行為が当たり前のように行われていました。

敗れた軍の大将を討ち取って、勝利した武将に首を差し出すことで褒美がもらえたケースもあるようです。

 

おそらく、

 

「あいつら戦で疲れきってるから、今ならワシら(農民)でも討ち取れるんじゃね?」

「鎧や兜売って小遣い稼ぎするか?」

「んだな。上手くいけば褒美ももらえるかもしれんぞ。」

 

という感じ。

光秀は敗軍の将として、農民からも命を狙われることになったのです。

 

ただでさえ負け戦で疲れ切っていた光秀。

そこにスキをついて飛び出してきた農民の竹槍に刺されて致命傷を負ってしまったようです。

 

この辺りは諸説があってハッキリとしたことは分かっていませんが、生きて坂本城に戻ることが不可能だと考えた光秀は、茂朝に介錯(とどめを刺すこと)を頼んだとされています。

 

苦しむ主君を早く楽にしてあげたい。

そして、首を落ち者狩りの農民に渡す訳にはいかない。

 

そう考えた茂朝は泣く泣く光秀にとどめをさします。。

では、光秀の介錯をした茂朝はどうなったのでしょうか?

 

実は茂朝はどこで亡くなったなどは分かっていません。

光秀と一緒に小栗栖で討ち取られたとも、坂本城まで引き上げて明智秀満たちと一緒に自害したとも言われています。

 

しかし、光秀の首がすぐに秀吉の手に渡っていることを考えると、茂朝が光秀の首を持って生き延びたとは考えにくいです。

そのため筆者は、疲労困憊だった光秀家臣団は落武者狩りを跳ね除けることができず、全員、農民に討ち取られたのではないかと思っています。

 

そして、溝尾茂朝という名前は「光秀を介錯した武将」として後世に残り続けることになるのです。

 

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