赤井直正は丹波国(今の兵庫県)を治めた戦国武将。

織田信長の命を受けて侵攻してきた明智光秀の軍勢を、黒井城の戦いで敗走させるほどの戦上手で、「丹波の赤鬼」という呼び名が付いています。

 

「悪右衛門」というあだ名もあるので、イメージとしてはケンカ最強のワイルドな兄貴分といった感じです。

今回はこの赤井直正(荻野直正)について詳しく解説します。

 

スポンサードリンク

生涯負けなし!赤井直正の勇猛果敢ぶりをわかりやすく解説!

赤井直正
【出身国】丹波国氷上郡
【生没年】1529~1578年 享年50歳
【主な経歴】丹波北部の戦国大名

 

【赤井直正を簡単に紹介するとこんな人】

  • 一族の城を乗っ取って自分の居城に!
  • 「丹波の赤鬼」と呼ばれ恐れられた猛将
  • 武田信玄の家臣が「名高キ武士」の筆頭格に挙げる武勇
  • 明智勢を何度も撃退。光秀を震撼させる
  • あの元プロボクサーのご先祖様

 

知略あふれる武将といえば明智光秀。

しかし、その光秀が裸足で逃げ出すほどの恐怖を植え付けた戦国武将がいます。

 

それが今回紹介する赤井直正。

丹波北部の戦国大名にして「丹波の赤鬼」として恐れられた人物です。

 

直正が悪右衛門と呼ばれる理由

1529年、氷上・天田・何鹿の3郡を治める戦国大名赤井氏の次男として誕生。

幼名は才丸といいました。

 

当然、次男ですから赤井の本家は継げず、同族の荻野氏の養子となったそうです。

実は直政は赤井姓を自ら名乗ったことはなく、この荻野姓を貫いていたと言われています。

 

いずれにせよ荻野氏に入った才丸は元服して直正と名乗り、若干20歳にして侵攻してきた内藤国貞、三好氏の軍勢と大いに戦い活躍したといいます。

しかしその後、直正は黒井城に拠る母方の叔父だった荻野秋清を暗殺し、その居城を奪ってしまいました。

 

まさに下克上を具現化した所業で、この時を境に直正は「悪右衛門」と呼ばれるようになりました。

 

しかし直正を一応弁護しておくと、この秋清は武将としては優れていたものの人の心の機微には疎い人だった様子。

家臣の城が隣国の波多野氏によって攻め滅ぼされた時、見て見ぬふりをして援軍すら出さなかったようで、家臣たちの信頼を失っていました。

 

ですから家臣たちが直正の下克上を後押ししたとも言えるのです。

こうして晴れて黒井城主となった直正は、いよいよその勇猛ぶりを近隣へと轟かせていくのです。

 

織田信長と対立するまでの流れ

1557年、兄の家清が戦傷が元で亡くなると、わずか8歳の嫡男忠家の後見役となって赤井一族を率いることになりました。

もうこの頃には荻野氏は完全に赤井氏に従属しています。

 

1565年には兄の仇である内藤宗勝(松永久秀の弟)を和久郷の戦いにて討ち取り、丹波における三好氏の勢力は大きく後退していきました。

そして1570年、上洛していた織田信長に甥の忠家と共に臣従し、丹波における領国の安堵を受けました。

 

しかし、これで赤井氏は安泰かと思いきや、思わぬ敵が北の方より攻めてきたのです。

丹波国北部にある山垣城は、鎌倉以来の名門足立氏が守っており、早くから赤井氏に従っていました。

 

ところが北に領国を接する山名祐豊が突如として山垣城を襲ったのです。

 

実は山名氏と足立氏は、それより100年前の応仁の乱の頃から仲が悪く、ここにきて遺恨が再燃したのです。

とはいえ、かわいい配下の武将が攻められるのを見て黙っているわけにはいきません。

直正らは軍勢を催して救援に駆け付け、逆に相手の本拠地へ攻め込みます。

 

しかし、このことが織田軍の丹波征伐を招くことになってしまいました。

実は山名は織田信長と通じていて、信長に助けてくれるよう泣きついていたのです。

 

直正は当然納得できません。

「は?先に仕掛けてきたのあっちじゃん!なんで文句言われなきゃなんねーの?」

 

しかしそんな抗弁が通じる相手ではありません。

4年後の1575年、明智光秀を大将とする丹波征討軍が編成されました。

 

明智光秀を2度も敗走される武略

圧倒的兵力で黒井城へ攻め寄せた明智軍。

直正は周囲に陣城を築いて長期包囲の構えに出ます。

 

明智光秀の肖像画
明智光秀の肖像画

 

「これは楽勝だね♪」とのんきに構えていた光秀。

しかし直正の罠が待ち受けていたのです。

 

丹波国南部の戦国大名波多野秀治は織田に臣従を誓っていたはずですが、その波多野軍が背後から明智軍に襲い掛かってきたのです。

 

いきなり襲われた明智軍は算を乱して退却。

実は直正は裏でひそかに波多野氏と結んでおり、「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦略で明智軍を挟撃したのです。

 

翌年、陣営を立て直した光秀は、再び黒井城を攻略するべく陣を敷きました。

すると今度は直正の弟幸家の軍勢が明智軍の背後から襲い掛かり、ひるんだところを今度は波多野軍が2方向から挟撃したのです。

 

たまらず明智軍は退却。

陣を立て直そうとしたところ、今度は黒井城の南にある高見山城から忠家の軍勢に襲い掛かられて敗退します。

 

優秀で何でも完璧にせるエリートという印象がある光秀ですが、この時はばかりは京都へ逃げ戻るという失態を演じています。

 

この一連の戦いで直正は「丹波の赤鬼」の異名を取り、地元の地形を生かした巧みな戦術で織田軍を震撼させています。

 

しかし明智軍を2度までも撃退した直正に運命の時がやって来ます。

第二次黒井城攻防戦を前にして、齢50にして病没してしまったのです。

 

死因は首の腫れ物と言われています。

頼りがいある大将を失った黒井城は長くは保ちませんでした。

 

波多野氏の本拠八上城が落城し、黒井城周辺の支城も次々に落ちていったのです。

黒井城総攻撃の結果、大将の忠家は城を落ち延び、直正の嫡男直義も脱出して行方知れずになってしまいました。

 

しかし武勇をもって知られた赤井氏が断絶することはありませんでした。

忠家はのちに豊臣秀吉に仕え、江戸時代には幕府旗本となっていますし、直義も後年には藤堂氏の重臣となっており、家名を残しています。

 

「丹波の赤鬼」の系譜はずっと続いていたわけですね。

 

武田信玄の家臣(四天王の一人)が甲陽軍鑑で称えた武勇

甲斐の武田家の事績を記した書物に「甲陽軍鑑」があります。

甲陽軍艦は武田信玄の家臣で、武田四天王と呼ばれた高坂昌信によって作られたとされています。

 

武田信玄の銅像
武田信玄の銅像

 

直正のいた兵庫県と武田信玄の本拠地であった山梨県はそこそこの距離がありますが、直正の武勇は甲斐にまで伝わっていたようで、この書物の中には赤井直正を褒め讃えている文章があります。

 

直正の名前が「名高キ武士」として徳川家康や長宗我部元親と共に紹介されているのですが、なんと直正はその筆頭に挙げられています。

 

甲陽軍鑑が成立したのは江戸時代初期とは言われていますが、武田氏にゆかりの深い当時の人間が加筆していったものであるため、遠い丹波にいた直正の名が甲斐にまで伝わっていたということは興味深いです。

 

三日月

高坂昌信については下記の記事で詳しく解説してます。

高坂昌信と甲陽軍鑑!出世のきっかけは武田信玄との衆道関係?

勇気ある若者に贈り物を授ける

黒井城攻防戦の最中、羽柴秀吉の配下である脇坂安治が、明智軍に援軍として派遣されていました。

ある時、安治は軍使として単身城に乗り込んで直正に降伏開城を勧めます。

まだ20歳過ぎの若者でした。

 

当然の如く直正は断りますが、敵のいる真っただ中に恐れず乗り込んできた安治の勇気と胆力を讃え、赤井氏累代の家宝である「貂の皮」を与えたそうです。

安治はのちに賤ヶ岳の七本槍の一人として勇名を馳せ、江戸時代には大名として存続しました。

 

人を見抜く力があったのか、こういった逸話から直正の度量の大きさというか、敵にも敬意を払うという優しさが見えてきますよね。

 

赤井直正の子孫はあの有名人

赤井直正の子孫は現代でも芸能界で活躍されています。

苗字がそのままなのでお気づきの方もいるかもしれませんが、元プロボクサーで俳優もされている赤井英和さんがその人です。

直正は13回戦って一度も負けなかったそうですが、赤井英和さんも現役時代には12回連続KOという記録を持っています。

 

やはりご先祖様の血が流れているのか、この辺りにも不思議な繋がりを感じますね。

 

2020年からスタートする大河ドラマ「麒麟がくる」には赤井直正も登場すると思いますが、配役がまだ発表されていません。

子孫の赤井英和さんが直正を演じることになると胸アツですね。

 

個人的にはイメージもぴったりなので、ぜひ直正役は赤井英和さんに演じてほしいと思っています。

 

三日月

明智光秀については下記の記事で詳しく解説してます。

明智光秀と南光坊天海は同一人物?その可能性はあるのか?



Sponsored Link