「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」豊臣秀吉の性格を表す歌です。

鳴かないホトトギスをどんな手を使っても鳴かせてみせるという、秀吉の自信家の面を表しています。

 

農民(一説には足軽)から天下人にまで登りつめた稀代の策士はいったいどういった人物だったのでしょうか。

 

スポンサードリンク

人たらしの秀吉

豊臣秀吉を表す言葉に「人たらし」という言葉があります。

秀吉はとにかく人を褒めたり、持ち上げたりすることが多かったようで、言葉巧みに人の心を動かす能力に長けていました。

 

竹中半兵衛や蜂須賀小六、黒田官兵衛など智将と呼ばれる武将を使いこなしたことでもその人使いの上手さが分かると思います。

そして織田信長の家臣であった時から世渡り上手なお調子者で、とにかく目立った言動が多かったようです。

 

個人的なイメージだと、現代で言うところの『太鼓持ち』のような感じです。

 

豊臣秀吉の容姿と性格

豊臣秀吉は織田信長から「猿」と呼ばれていたことで有名ですが、外見は醜かったと色々な書物に記録されています。

外国人宣教師が記した記録などをまとめてみると、「背が低く、顔も小さく色黒で目の飛び出した猿のような顔で、醜悪な顔」という、何か散々な評価です。

 

外見に関してはあまり見栄えのする顔ではなかったことは間違いありません。

 

Toyotomi_hideyoshi

 

その他の外見の特徴としては秀吉は右手の親指が1本多く、指が6本あったとされています。

これは若い頃から秀吉と付き合いのあった、前田利家が語っていることです。

 

この事を秀吉も気にしていたのか、肖像画などは右手の親指を隠すように描かれています。

 

そして何より有名なのが極度の女好きということ。

とにかく女遊びが多く、正妻のおねが織田信長に秀吉の浮気を相談したことが分かってます。

 

相談を受けた信長は

「おねは美しく、はげねずみ(秀吉)にねねはもったいないくらいの良妻。だから正妻として自信を持って堂々としていろ」

と励ましの手紙を送っているくらいです。

 

正妻のおねが信長に浮気を直訴するとはかなりの女好きだったのでしょう。

それは、宇喜多直家や浅井長政などの戦国大名の妻や娘(茶々)を側室に迎えた事からも分かります。

 

女好きの秀吉にとって、天下を取った後はまさに天国のような状態だったでしょうね(笑)

 

関連記事→織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑!政治面で一番優秀なのは誰?

 

信長の残虐さを継承

残虐といえば織田信長のイメージですが、秀吉もかなり残虐な行為をしています。

天正5年に毛利を攻めていた秀吉は毛利氏への見せしめのために女、子供を磔にするなどして200人以上処刑しています。

 

そして朝鮮出兵の際も、討ち取った首ではなく、耳や鼻を削いだものを塩漬けにして日本に送らせていたとも言います。

織田信長のやり方を見ていた秀吉は、時には非情にならなければいけない事を学んでいたのかもしれません。

 

特に晩年の秀吉には残虐と言うか、傍若無人で強引なやり方が目立ち、家臣たちも半ば呆れていたようにも思えます。

 

ルイス・フロイスが下した散々な秀吉の評価

織田信長の近くにあった、ルイス・フロイスが記した秀吉の評価です。

 

  • 「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた」
  • 「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」
  • 「抜け目なき策略家であった」
  • 「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた」

wikipediaより引用

 

実際に織田信長に使えていた頃の秀吉は信長には気に入られていても、柴田勝家達からだけでなく、周囲の人物からはあまり良く思われてなかったのかも知れませんね。

フロイスはキリスト教を擁護した人物の事は好意的に記し、弾圧した人物に関しては悪く書いているとも言われますが、それにしても、フロイスの秀吉に対する評価(イメージ)は最悪だったようです・・(笑)。

 

 

将軍経験者や大名をうまく活用する賢さ

情報が勝利を手にする大きな要因であるのはいつの時代も同じ。

戦国大名は特に情報戦や教養に長けた人物を召抱えて、重要な事を決める時には彼らに相談していました。

 

これを御伽衆(おとぎしゅう)と呼びます。

 

御伽衆の役目は主に軍事に関する進言でしたが、この他にもお茶や芸術、それに取りとめもない世間話の相手など、多岐に渡って主君の生活を支える人材となっていました。

 

そして、この御伽衆を用いたことで有名なのが豊臣秀吉。

天下を統一した秀吉は数多くの人物を御伽衆として召抱えていました。

 

その数は800人を超えていたとも言われています。

 

そして驚くべきはそのメンツ。

 

天下人・秀吉の御伽衆は武家からも町人からも招聘したためにそのメンツは多種多様でとにかく豪華でした。

 

その代表格は元室町将軍・足利義昭。

朝廷からも凄まじい待遇を受けていた将軍経験者が相談役って凄くないですか?

義昭は秀吉の朝鮮出兵の際には高齢を押して肥前名護屋城まで出陣しています。

 

同じく室町時代以来の名門出身者としては、室町幕府66カ国のうち11カ国を支配し「六分之一殿」と呼ばれた山名氏から山名豊国、山名堯熙(あきひろ)。

播磨を治めた赤松則房(のりふさ)や摂津などを支配し室町将軍を牛耳った家として知られる細川家嫡流(藤孝、忠興らは庶流)の細川昭元がいます。

 

さらに近江からは六角義賢・義治親子が加わっており、幼少期の秀頼に弓矢を教えていました。

彼らはいずれも下克上で権力を失った旧家の貴族です。

 

貴族以外の武家の代表は、織田信雄、織田信包(のぶかね)、織田有楽斎(長益)。

その名の通り秀吉の主君・織田家の人間で、信雄は信長の次男、信包と有楽斎は信長の弟です。

 

信雄は信長の息子でありながら一般的にはうつけ者だと言われていますが、小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に臣従するまでは実質織田政権のトップだった信雄。

つまり秀吉にとっては信長、信忠に次ぐ主君だったのです。

 

信雄は大名としては秀吉の怒りを買って改易されたこともありますが、お茶や能に詳しく芸術方面では農民出身の秀吉が遠く及ばない知識を持っていました。

 

一方、有楽斎といえば千利休の弟子としても有名な茶人。

他には茶人古田織部や織田家臣時代の同僚・佐々成政(後に自害を命令)や金森長近、長きに渡って自分の参謀として活躍した宮部継潤(けいじゅん)など、やはり織田家からの登用が目立ちます。

 

要するに、秀吉は貧しい身分であった自分が旧家や主君を抑えて武家の頂点に降り立ったのだということを示したかったのです。

それに彼らは学問・教養の師であり話し相手でもありました。

 

秀吉のように天下国家を論ずる政治家になると並みの人物では話についていけないので、大名クラスの話がわかる人間が必要だったのです。

 

秀吉の死因

豊臣秀吉の死因は現在でもハッキリとは分かっていません。

しかし、当時の資料に書いてある最期の秀吉の症状を検証してみると、死因に関しては色々な仮説が浮かび上がってくるようです。

 

晩年の秀吉は精神が錯乱したり、失禁してしまうことがありました。

この症状から、現在のお医者さんが病名を推測したところ大腸がんではないかという事でした。

 

また、大腸がんではなく、秀吉の死因は脚気というお医者さんもいます。

さらに、精神錯乱や失禁は、ヒ素を飲み続けた時に発症する症状でもあるようで、誰かが秀吉に毒を盛り続けていたのではという専門家もいます。

 

死因に脚気が上がってくるというのも意外な感じがしましたが、秀吉の命を狙ってい人物がいたかもしれないという説には驚きです。

 

秀吉の事なので、ストレスが原因で・・・という事はないと思いますが、天下人ともなると、多くの人の利害関係に関わることになるので、それはそれで大変だったのかもしれませんね。

 

関連記事→豊臣秀吉が失禁したって本当?天下人の最期の様子とは?

 



Sponsored Link