徳川家康が人質として今川義元の元に居た時期から家康を支え続けた家臣・石川数正。
徳川家康が人質として織田家や今川家を転々としている頃から傍に仕えていたわけですから、まさに旧知の友と呼べる間柄です。
年齢は徳川家康よりも10歳ほど年上。
徳川家康が参戦した戦さには常に出陣して活躍、実際に徳川家康のために自らの宗派まで変えて仕えるほど忠誠心の厚い人物でした。
しかし、数正が突如家康を裏切り、豊臣秀吉の家臣となってしまいます。
果たして裏切りの理由とは?
家康の右腕としての石川数正の経歴
まず、石川数正の出奔までの徳川家中での簡単な経歴を見てみましょう。
石川数正(いしかわかずまさ)
1533年三河国生まれ
→家康が今川義元の人質になった際に一緒に従う(1547年?)
→今川氏真と交渉し人質だった家康の妻子を取り戻す(1560年)
→家老となる(1564年)
→西三河の旗頭となる(1569年)
→嫡男・松平信康の後見人として岡崎城に入城(1570年)
→信康切腹によって、岡崎城代となる(1579年)
→伊賀越え(1582年)
→家康の使者として秀吉と交渉(1584年)
→出奔、秀吉に仕える(1585年)
こうしてみると、やはり家康にとってはとても重要な存在だったことが分かりますね。
石川数正は家康にとって忠義も手柄も十分な武将で、特に岡崎城代になっているところがポイント。
家康の側近集団の中では城持ちだったのは数正をはじめ数少ない人だけで、岡崎城は徳川氏本来の居城であることから地位も実質的に徳川家で5本の指に入るくらいだったでしょう。
岡崎城は家康が誕生した思い出深い城。
その城を任されると言う事は家康に信頼の深さの証し、数正はまさに誰もが認める徳川家の柱石でした。
秀吉との外交
そもそも三河武士というのは質素倹約、忠義のためなら己を捨て、私欲に走らないと言われる気質で、その代り主従の関係であっても己の信念は絶対に曲げないという恐ろしく頭の固い集団でした。
そんな頑固者ばかりですから、政治的な駆け引きを必要とするような外交には不向きで、むしろそれが得意だと三河武士に非ずと非難されるぐらいでした。
しかし、石川数正は多感な少年期を今川家で過ごしていたということもあるのか、三河武士の中では珍しく視野が広く柔軟な考えができる人物でした。
インテリという捉え方もできます。
織田信長が本能寺の変で亡くなり豊臣秀吉が台頭してきてから、数正は外交官として交渉にも赴くようになるのですが、豊臣秀吉相手に交渉できる人物はこの石川数正をおいて他にいなかったと考えられます。
特に豊臣秀吉は引き抜きの天才ですから、家康にとって忠義の厚い石川数正は交渉役にはうってつけだったのでしょう。
しかし、この家康の考えはあっけなく裏切られてしまう事になります。
家臣団の派閥争い?
1584年、小牧・長久手の戦いという豊臣秀吉と徳川家康の直接対決。
内容的には豊臣秀吉が負けるのですが、最終的に和睦という形になり表向きは引き分けで終戦します。
この時、天下に鳴り響いたのが徳川家康の戦上手の声。
小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉の勢力が滅びるとか、大きく権勢が傾くといったことはありませんでした。
しかし、天下統一を目指す豊臣秀吉としては大問題です。
徳川家康は織田信長の唯一の同盟者にして、幾多の戦場を渡り歩いてきたいわば武士の羨望の的。
秀吉からすると徳川家康と敵対するよりも、何としてでも傘下にしたいというのが本心でした。
そこで秀吉は、家康が膝を屈したと世間に知らしめるため盛んに上洛を要請。
この時、徳川家ではあくまでも戦いで白黒つけようとする主戦派と融和派(天下の形勢はもう決まっているのだから仲良くしたほうが賢明)の意見の衝突になります。
石川数正は融和派の筆頭で豊臣秀吉との外交の交渉担当。
主戦派は石川数正が豊臣秀吉に取り込まれていると疑いを持ちます。
この対立の後、突如石川数正は徳川家を出奔。
豊臣秀吉に家臣として迎えられます。
これにより徳川家は大混乱。
トップハンティングされているので、内情や戦術などの情報が筒抜け状態です。
そのため、この数正の裏切りを機に、徳川家は軍法を従来のものから武田流(武田家滅亡後に武田の旧臣を召抱えていたため)に改めています。
数正が家康を裏切った理由
今現在、数正が家康を裏切った理由というのはハッキリ分かっていません。
しかし、一般的に数正が家康を裏切ったのは下記のよう理由からだったとされています。
- 秀吉と接するうちにその器量に惚れ込んだ。
- 単純に恩賞(加増)に目がくらんだ。
- 強硬派である本多忠勝らから秀吉との内通を疑われ、徳川家に居づらくなった。
- すでに家康との仲が悪くなっていた。
- 徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移り家中で立場がなくなった。
書籍では様々な考察がありますが、私が思う理由としては、古臭い考えがはびこる三河を捨てて、新しい価値観が主流になる新時代にかけてみようという野心を感じなくもありません。
簡単に言うと徳川家康を見限り裏切ったことになります。
しかし、ここまでのキャリアを積んだ忠誠心厚い男がそんな行為に及ぶものなのかは疑問がのこるところで、数正はスパイとしてあえて徳川を裏切ったフリをして豊臣方に近づいたという説もあります。
ただ、実際は徳川家の実権が数正から浜松衆に移り、徳川家での影響力を失っていった事がおもしろくなかったのではないかと思います。
数正の場合、現代の会社でも多く見られる、古参の社員が新しく入った社員に立場を追われるという構図に似ているような気がします。
特に頑固で知られる三河武士から一度嫌われたらずっと引きずりそうですから、家中でも本当に居場所がなかったのではないかと思います。
何か露骨に嫌がらせされそうですしね(笑)
それが良かったのか悪かったのか?
石川数正は家康を裏切り豊臣秀吉の家臣となった事で信濃松本10万石(一説には8万石)の大名となっています。
では、数正が出奔したことで徳川家は具体的にどのように変わったのでしょうか?
そして、数正が家康を裏切ったことで一番得をした人物は誰なのでしょうか?
石川数正の裏切りで損をした人と得をした人
ここからは数正の出奔によって得をした人物、損をした人物が誰だったのかを考えてみましょう。
井伊直政 ~若輩ながらベテラン達を越える待遇を受ける~
数正の出奔によって徳川家は軍制を武田流に改めることとなりました。
この軍事改革のきっかけは数正が代々続く徳川流の軍制を取り仕切っていたから。
そのため、徳川家に代々伝わる軍制から武田流に変更するために重用されたのが井伊直政です。
直政が召し抱えたの旧武田家臣。
例えば井伊の赤備えは本来、山県昌景のものですが、実際に運用したのは直政であり、「井伊の赤備え」と呼ばれて戦国・江戸時代を通じて井伊家の誇りとなります。
直政は小牧長久手の戦果を秀吉によって認められ、官位の上では主君の家康と並んで昇段を許される身分となりました。
これによって徳川家中でも随一の重臣となり、後の繁栄の基礎を築くこととなるのです。
ですがこれはもし数正がいたら時期が大幅にずれてしまい直政の活躍は全く別の形になっていたかもしれません。
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酒井忠次もまた幼少期から家康に仕えていた重臣中の重臣。
血縁上でも家康の叔父にあたるため、家康はもちろん信長でさえも敬意を表して接するほどでした。
忠次の仕事は主に東海道にいる豪族や今川旧臣との交渉であり、東三河を治める立場にありました。
それに対する存在が石川数正で西三河を治める立場にあり、忠次と数正は最大のライバルでした。
数正は1570年からずっと岡崎城の松平信康の後見人として政治権力を握っていましたが、忠次は主に豪族のリーダーとして武功によって出世する立場でした。
三河武士はよく頑固な無骨者が多いといわれていますが、数正は背広組ながら家康の頭脳として武闘派の及ばないところをフォローする立場にありました。
そのため、忠次は年下に立場を奪われていたのです。
しかし、数正がいなくなったことで忠次は三河武士の中でも一番の立場を獲得することになります。
ただ、忠次は数正の出奔から間もなくして、眼が見えなくなって隠居してしまいます。
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本多正信 ~遅咲きの謀臣、立場を得るきっかけ~
家康は今川から独立して間もなく三河の一向一揆に頭を悩ませていました。
表向きは一向一揆ですが、実は門徒としての信仰と板挟みになった反家康派の反乱でもあります。
この時、正信は一揆衆として参戦。
家康に捕らえられた後に釈放されると、10年ほど諸国を流浪して再び家康のもとに戻ります。
しかし徳川家中での評判は最悪で、同じ本多姓の忠勝からは「同じ本多でもあいつだけは無関係」「腰抜け」、重次からもよく思われていませんでした。
榊原康政からも「腸の腐ったやつ」と言われています。
上記の人達は皆武闘派で一向一揆の際も改宗してまで家康についた忠義の臣、彼らからすれば正信はどっち付かずの腐った輩といった感じだったのかもしれません。
しかし、家康だけは正信の「腐った性根」を重用しました。
そして、その最初のきっかけになったのが数正の出奔。
数正は武功もありましたが外交等の責任者として武闘派が理解できない行動をとっていたため、家中で立場をなくしていた可能性もあります。
もしそうなら、正信は数正の後継者として批判を理不尽に批判を浴びる立場だったのかもしれません。
しかしそれがのちに家康の信頼を受ける一里塚となったのです。
もっとも、正信は自分が嫌われていたことをよく理解していたので、自分がもらった3万石以上の加増を生涯拒否するという慎重さも持ち合わせていました。
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豊臣秀吉 ~家康が欲しい時に棚からぼた餅~
突如家康のブレーンである数正を手に入れた秀吉ですが、秀吉はこの頃、家康に呼応して反秀吉に転換した土佐の長曾我部や紀伊の雑賀衆への対応に追われていました。
しかし彼らを従わせると家康はやむなく降伏を決断し秀吉の傘下に入ります。
この時、数正が家康の降伏に対しどのように貢献したのかはわかりませんが、秀吉から河内国8万石を与えらえ、のちに信濃国松本に転封となます。
数正は1593年頃に亡くなりますが、それまでに小田原征伐や朝鮮出兵に関わったような形跡はありません。
後の松本藩の祖とみなされる数正ですが、数正自身からすれば単に老後の心配を考えての行動だったのかもしれません。
秀吉が数正を意図的に家康から離して用いていたようですし、政治的な理由とはまた別に何か訳があったのかもしれません。
なお、数正の息子達はそろって秀吉に仕えており、のちに皆徳川に帰参しています。
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徳川家康 は石川数正に報復を考えていた?
幼少期からずっと苦楽を共にしてきた数正の出奔は、家康にとって大きなダメージだたと思います。
数正亡き後の石川家は、関ケ原の戦いで東軍についたことで所領を安堵されていますが、どうも家康は恨みっこなしで数正を送り出したわけでなく、石川家には何かしらの報復を考えていたようです。
松本藩で騒動が起きたとき、家康は石川家を改易しようとしたと伝わります。
ですが、当時の権力者・大久保長安と石川家が縁戚だったことから助けられます。
それから間もなく長安が病死すると、家康は長安に連座したとして石川家を揃って改易します。
かつての家臣とはいえ何かしらの報いを受けさせたかったのかもしれないですね。
まとめ
数正が何を考えていたのかはわかりませんが、組織の中で人1人やめるとなると案外大事になるという例をみている感じですね。
普通の武士ならさておき、家康社長にとっては数正常務の突然の退職は「お前の代わりはいくらでもいるんだぞ!」という気持ちにはなりきれなかったようです。
でも、立場が上の人ほど何かの拍子にあっさりと地位を失い悲惨な最期を迎えることも往々にしてあります。
明智光秀なんかはその最たる例ですが、数正は自分自身とりあえず余生をまともに過ごせた点では見事な処世術だったとしていいでしょう。
本当に、組織というのは何があるのかわからないところです。
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