徳川家康の天下取りを支えた人物は多々いますが、その中でも参謀として知略の限りを尽くした本多正信と、戦場で傷一つ負わなかったとされる四天王の本多忠勝の功績は有名です。

 

この2人は同じ本多姓を持っていますが一体どういった関係なのでしょうか?

 

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兄弟?親戚?

徳川家康の『政治面』と『軍事面』を支えた本多正信と本多忠勝。

同じ本多姓なので、2人は兄弟や親子なのかと思う人もいますが、正信と忠勝は兄弟でも親子でもありません。

 

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もともと三河には本多の姓は多く、家康の家臣には「鬼作三」という異名をもつ本多重次という家臣もいます。

正信と忠勝は過去をたどっていけば同じ祖先に結びつくのですが、互いに親戚の意識は薄かったようです。

 

ちなみに本多家は江戸時代に13の大名が存在し、旗本の数も45だったそうです。

徳川宗家・分家しか用いることができなかった「葵紋」の使用を許されていることから、特別な譜代だったことが分かります。

 

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本多正信と忠勝のタイプの違い

三河武士は精強で頑固者として知られ、信念のためならば主君にも従わぬ頑なさが特徴。

本多正信も信仰を重視し一向一揆に加わり、一時は徳川家康を裏切って出奔しています。

 

そして、約10年間も家康の元を離れたままでした。

しかし、家康は正信の徳川家への帰参を許し、本能寺の変辺りからは正信が家康の右腕として智略を発揮するようになります。

 

豊臣秀吉亡き後の謀略の陰には本多正信ありというぐらい、徳川家康にとってなくてはならない人物でした。

一方、本多家の宗家は本多忠勝とされていますが、彼の活躍も尋常ではありません。

 

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蜻蛉切という槍を用い、鹿角の兜をかぶって、幾多の戦場で手柄をあげています。

関連記事⇒徳川四天王_本多忠勝と蜻蛉切について!!

 

有名な言葉に「徳川に過ぎたるものあり、唐の頭に本多平八」という武田家からの賛辞が残っています。

平八は忠勝のこと。

 

この歌からも分かるように忠勝は武田家から称えられるほどの名将ぶりでした。

 

関ヶ原の合戦後の活躍

三河武士は頭を使った働き「智略」よりも、戦場で敵を討ち取る「武勇」を重んじる風習があります。

そのため、本多正信は皆から嫌われ、本多忠勝は徳川四天王として家中でも尊敬を集めていました。

 

同じ本多姓ということもあったのかもしれませんが、本多忠勝は「正信の腰抜け」と侮っていたという逸話があるので、人の関係が仲良くなかったのは確かです。

 

では主君である徳川家康はどちらを重宝したのでしょうか?

これは、関ヶ原の合戦までは戦働きを得意とした本多忠勝でしょう。

その武勇は織田信長豊臣秀吉ですら認めているので間違いありません。

 

戦を勝ち抜く上で本多忠勝の武力と用兵の才は必要不可欠なものでした。

 

しかし天下を統一するには武力だけでは足りず、必ず政治力が必要になります。

政治というのは忠勝ら三河武士にとっては苦手とされる分野。

 

なので、関ヶ原の合戦が終わって大名を統治する時代になってくると、必然的に正信の出番が増えていきます。

本多正信は出奔した時に松永秀久に仕えるなど、諸国を転々と放浪し多くの経験と様々な価値観を身につけています。

そのため、戦がなくなってからは重用されたのは間違いなく本多正信です。

 

家康は正信と共に江戸幕府の基盤を固め、その帝王学を秀忠にも継承させるため、正信を秀忠につけています。

もしかすると、家康の老臣でありながら徳川を裏切った石川数正に代わる存在が正信だったのかもしれません。

 

 

徳川家康との関係

本多正信は徳川家康よりも5つほど年上です。

10年以上出奔していた本多正信でしたが、徳川家に帰参してから、家康は正信を友と呼ぶ間柄となりました。

三河武士の力や考え方だけでは天下を統べることはできないという決意の表れにもとれます。

 

【本多正信=謀略】のイメージが強いですが、逸話として残っているものはむしろ人としての謙虚さを追及する姿です。

正信は息子の本多正純には3万石以上を賜るなという遺言を残しています。

必要以上の評価や加増は敵を増やし、危ぶまれることを考えての忠告でした。

 

しかし、本多正純はその忠告を無視し、15万石以上に加増され、やがて失脚することになります。

おそらく本多正信は全体のバランスを考え、調整するのが上手だった人物ではないかと思います。

 

七本槍で有名な加藤嘉明の加増の際も、必要以上の加増は滅びを招くと加増を下げ、また直接本人に説明をし、説得に成功しています。

徳川家康とは以心伝心で、一を聞いて主君の心内の十を知る人物であり、それが2代目将軍となる徳川秀忠の後継人という重職を任されることになります。

 

これは本多正信であれば徳川家康の志を理解して上手く手綱をとってくれるという信頼の表れだったように思えます。

おそらく人気や知名度は本多忠勝のほうが圧倒的に高いと思いますが、本多正信もこれに勝るとも劣らないくらい家康の信頼値を得ていたことは間違いありません。

 

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