中村半次郎(桐野利秋)の壮絶な最期!西郷隆盛に尽くした心優しき人斬り!

幕末維新期に活躍したのに今ひとつ名が知られていない人物というのが多く存在します。

中村半次郎(桐野利秋)もまたそのひとりです。

 

中村は幕末に西郷隆盛や大久保利通といった薩摩藩を代表する人物を陰から支え、維新期には新政府に軍人として関わった人物。

西南戦争が起こると、西郷隆盛とともに私兵を率いて政府軍と戦い壮絶な最期を遂げています。

 

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中村半次郎の生涯

中村半次郎(1838~1877)は薩摩藩の武士で大日本帝国陸軍の軍人です。

武士の家ながら家計が厳しかったため、幼少のころは畑の開墾や小作人をやっていた時期がありました。

 

 

国父・島津久光に随行して京へ上ってからは尹宮の守衛を行うかたわら他藩士と交流し、倒幕を志すようになりました。

戊辰戦争のおり、江戸に上る際、東海道先鋒隊の小隊長として駿河や小田原の攻略占領に貢献、会津戦争では会津藩が降伏したときの新政府側の代表を務め、城の受け渡しにも立ち会いました。

 

戊辰戦争終結後は新政府のある東京とかつての主君が治める鹿児島のパイプ役や、陸軍少将として軍事にあたるなど忙しなく日々を過ごしました。

 

ところが、明治6年の政変により西郷隆盛が下野すると桐野も職を辞し、鹿児島へ帰郷します。

鹿児島へ帰ってからは田畑の開墾や青少年の指導にあたりますが、それは長くは続きませんでした。

 

新政府による西郷隆盛の刺殺計画があることを知ると、半次郎(この時は桐野利秋)はみずから兵を率いて鹿児島を出発します。

当初、熊本まで兵を進めた半次郎でしたが新政府軍の守備は堅く膠着状態となりました。

 

やがて新政府側に援軍が到着すると戦況は不利なものとなり撤退、各地で転戦し鹿児島に落ち延びました。

ここで総指揮官の西郷隆盛とともに奮戦し、一時は鹿児島城下の大半を占拠するまでに新政府軍を圧倒しましたが、ついに陣地を包囲されてしまいました。

 

負けを悟った西郷は自刃。

半次郎は西郷が亡くなった後も徹底抗戦しましたが、額に銃弾を被弾して、その生涯に幕を閉じます。

 

坂本龍馬と親交を結ぶ

半次郎は寺田屋事件で負傷し、薩摩藩邸に匿われていた坂本龍馬を毎日のように見舞いに訪れていたと長府藩士の三吉慎蔵が語っています。

坂本龍馬が近江屋で暗殺された際には、犯人探しに奔走。

龍馬が率いていた海援隊や中岡慎太郎の陸援隊とも連絡を取り合っていたようです。

 

しかし、ついに犯人を捜し出すことはできませんでした。

半次郎は葬儀のあと、京都の霊山にある龍馬の墓参りに訪れています。

 

中村半次郎の人斬り伝説のホントのところ

何人もの人を斬り恐れられていたことから「人斬り半次郎」の異名を持つ中村ですが、実際は人斬りと呼ばれるほど人を斬っている訳ではないようです。

記録として残っているのは薩摩藩の教練役で公武合体派の赤松小三郎を斬ったという一件のみ。

斬った理由は赤松が幕府の密偵だったからと証言しています。

 

このことから中村の人斬り伝説は後世の創作と思われます。

 

会津藩主・松平容保から感謝の証を授かる

英国公使通訳官のアーネスト・サトウは、聞いた話として日記にこう書き残しています。

「会津戦争終結の折、新政府の代表として降伏会見に臨んだ中村半次郎は男泣きした」と。

これについては中村自身も「涙を禁じえなかった」と述べています。

 

また戦後、城内の藩士たちを親身になって世話し、助けたという逸話が残っており、話を聞いた藩主松平容保は痛く感動し、松平家の宝刀を中村に授けたそうです。

中村の優しさが敵味方を超えて通じ合ったエピソードです。

 

大久保利通は苦手?

肝が座った勇敢な侍で、勝海舟からも俊才であると評価されていた桐野利秋。

しかし、そんな桐野も大久保利通だけには面と向かって意見することができませんでした。

 

これは大久保利通が尋常ではない威厳を放っていたため。

一度、酔っ払った勢いで大久保に意見しようとしたものの、にらまれただけで何も言えなかったという逸話があります。

 

人斬りと恐れられた桐野を黙らせてしまう大久保の威厳って、ほんとに凄かったんでしょうね(笑)。

 

かなりの洒落者だった?

明治になり中村半次郎は桐野利秋という名前に改名しました。

その桐野はかなりの洒落者だったようです。

なかでもフランス製に絶大な信頼を寄せていたようで、陸軍時代に身に着けていたものは、軍服はオーダーメイド、軍刀も特注品だったようです。

 

派手な格好が好きな大男といった感じですね。

さらに日常的に香水をつけており、西南戦争で戦死したときにも香水をつけていたとされています。

 

壮絶な最期

西郷の死を見届けた後、桐野は兵を鼓舞しながら官軍に向かって攻めかかりました。

しかし、額に銃弾を受けて戦死。

 

遺体を検査した新政府側の検査書によれば「左の太ももに銃による傷(銃創)、右足に刀による傷(刀創)、左中指に刀で斬られた痕、下腹部より腰部に貫通した銃創、前頭よりこめかみ部に貫通した銃創、頭に刀創」と記されおり、勇戦した桐野の凄まじさが見て取れます。

 

さらにフィラリアを患っていたという記述もあることから桐野は新政府軍だけでなく病気とも戦っていたということになります。

 

西郷隆盛に最後まで従って戦い抜いた中村半次郎。

その最期は「人斬り」と呼ばれるに相応しい、壮絶なものだったようです。

 

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