幕末に「安政の改革」と呼ばれる取り組みに挑んだ阿部正弘。
若くして老中(幕府最高の地位で、将軍を助けて政治を行う役職)に就き、それまで鎖国政策をとっていた日本が開国するきっかけを作った人物です。
正弘はペリーが黒船を引き連れて日本にやってきた時の政治の責任者。
時代が大きな変化を迎える中で、正弘は国の仕組みをどのように変えていこうとしていたのでしょうか?
今回は阿部正弘の功績や人柄を分かりやすく解説していきます。
福山藩のお殿様から超スピード出世で老中に
正弘は福山藩(現在の広島県福山市)5代藩主・正精の6男として、江戸に生まれました。
兄の正寧(まさやす)の養子になった後、7代藩主になるのですが、実は生涯のほとんどを江戸で過ごしており、国元である福山藩に帰ったのは、藩主になった翌年の一度きりです。
つまり、福山藩主でありながら福山に滞在した時間はごく僅か。
人生のほとんどを国政に捧げた人物です。
老中といえば今でいう総理大臣のような役職。
広島(福山)市長をしながら国会議員になって、大臣に昇進したという感じなので、超エリートなお殿様です。
藩主になってから、正弘は幕府でどんどん出世していきます。
大名や旗本(将軍家に直属する1万石未満の家臣)が将軍に面会する時、彼らが持ってきたおみやげを取り次ぐ奏者番になり、お寺や神社を監督する寺社奉行へ。
そしてついには幕府の最高の地位である老中にまで登りつめます。
この時なんと25歳! どれだけ有能だったかが分かりますね。
しかも27歳で老中首座(4~5人いる老中の中で一番上の地位)に上りつめるという、ものすごいスピード出世を果たしています。
「開国シテクダサイ」!ペリーとの日米和親条約を結ぶ
正弘が老中首座になって8年後、日本は大きな変化に直面します。
アメリカの軍人・ペリーが、いわゆる黒船の艦隊を引き連れて日本にやってきたのです。
彼が幕府にフィルモア大統領の親書をわたし、日本に開国するよう求めると、日本中が上を下への大騒ぎになりました。
このような大変な状況に正弘はどう対応したかというと、まず親書を日本語に訳したものを朝廷(皇室のこと)に提出。
それから様々な方面に意見を求めます。
しかし、今まで幕府は親藩(将軍家の親せきが治めている藩)や外様(関ヶ原の戦いで家康の側ではなかった大名)を政治の場から遠ざけていました。
正弘はそのやり方を変え、譜代(代々将軍家に仕えてきた大名)・親藩・外様の全ての大名から意見を聞くことにしたのです。
また彼は、大名だけではなく幕臣(幕府の家臣)や大名の家臣、さらには一般の町民からも意見を集め、最終的には700余りの意見が寄せられることになります。
こうして幕府はアメリカの求めに応じるという結論を出し、開国はするが商売の取引はしないという条件で日米和親条約を結び、イギリスやロシアとも和親条約を結ぶことになります。
日米和親条約はアメリカと貿易をするという条約ではありませんが、この条約が結ばれたことで約200年続いた鎖国が終了することになります。
阿部正弘はまさに徳川政権が最大の危機を迎えた時の政治の責任者だったことが分かりますね。
正弘、実はお由羅騒動も収拾していた!
ペリーが来航する前、薩摩藩ではあの騒動が起きていました。
薩摩藩の10代藩主・島津斉興の跡継ぎをめぐって、正室の子・斉彬を支持する一派と、側室の子・久光を支持する一派が争いを展開したお由羅騒動です。
老中としてどんな問題もなんとかしてきた正弘。
実はお由羅騒動にも関わり裁断をくだしています。
お由羅騒動は当初、久光を支持していた家老(藩の家臣の中で最も高い地位で、藩主を助けて藩の政治を行っていた者)・調所広郷の不正を告発し失脚に追い込んだ斉彬派が優勢でした。
しかし、久光の母・お由羅が、斉彬や彼の息子たちに呪いをかけていると断定した斉彬派が久光派の暗殺を計画したため、それを知った斉興が計画に参加した斉彬派の者たちを厳しく処罰するという経緯をたどります。
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そんな薩摩藩のお家騒動を知った幕府。
正弘はどう対応したのかというと、「こんな騒動になった責任を取れ!」というわけで斉興を隠居させ、斉彬に跡を継がせたのです。
このおかげで、西郷隆盛と大久保利通が活躍するようになり、明治維新へとつながるのですから、彼の判断は皮肉にも幕府の運命を決めてしまったということになります。
ストーカー気質?阿部正弘の恋愛事情
幕府の実力者として政治能力を発揮した阿部正弘。
仕事一筋の人かと思いきや、人間味のある逸話も残されています。
江戸の向島にあった長命寺というお寺に、桜餅を売っている「おとよ」というかわいいと評判の女性がいました。
正弘は長命寺を訪れた際におとよに一目惚れ。
駕籠を止めて遠くからおとよを見つめていたという逸話があります。
その後、他にもおとよを狙っている男がいると知ると、正弘はおとよを強引に妾として屋敷に迎えます。
「おとよは誰にも渡したくないから俺のものにする!!」
ちょっとストーカーの気質もありますが、仕事だけではない、正弘の人間味がうかがい知れる逸話です(笑)。
死因は過労?思い切った改革があだになり第一線を退く
こうしてあちこちで起きる問題を解決した正弘は、「収拾の偉才」と評されています。
身近にこんな人がいたら本当に頼もしいと思います。
彼は他にも、有能な人材を身分に関係なく起用したり、日本を守るために西洋の砲術(大砲や鉄砲の練習をしたり、火薬の知識や技術を勉強すること)を取り入れています。
さらに、それまで禁じていた大きな船を作ることを許可して、国の将来を考えて、前例にこだわることなくいろんな政策に取り組みました。
ただ、こういう思い切ったことをするとよくあるのが保守派の反発。
彼は新しいことを受け入れるのが苦手な譜代の大名からの反対にあい、佐倉藩主の堀田正睦(ほったまさよし)に後を譲る形で老中首座の座から降ります。
そしてこの8か月後に39歳で死去。
急な死であったことから死因は過労ではないかと言われています。
その他にも肝臓癌が死因というという説もありますが、個人的には老中首座を辞め、プレッシャーや外交問題の激務から解放された反動で体調を崩したのではないかと思います。
バリバリ働いていた人が仕事を辞めた途端に老いたり、大きなプロジェクトが終了するとプレッシャーから解放されて体調を崩すって話は良く聞きますよね?
老中首座というのは政治の責任者中の責任者(正弘は首座を辞めても老中という地位にはいましたが)。
国の存亡をかけた外国との交渉は、それほど尋常ではないプレッシャーがあったのではないでしょうか?
開国という、日本の状況を一変させる大事件に立ち向かった正弘。
志半ばで老中首座の座から降りることになったものの、彼が行った改革は、その後の日本をさらに大きく変えることになります。