西郷隆盛率いる薩軍と新政府軍が戦った西南戦争。

国内最後の内戦で、西郷隆盛の最期の舞台となる戦争として知られています。

 

この戦いで命を落とすことになる隆盛。

なぜ西郷は自らも関わって創り上げた新政府と戦うことになったのでしょうか?

 

今回は西南戦争と西郷隆盛の最期の様子に迫ってみたいと思います。

 

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西南戦争の最初のきっかけ

西南戦争に至る最初のきっかけ。

それは、新政府の中で議論されていた征韓論で隆盛の意見が通らなかったことだといわれています。

 

新政府はずっと朝鮮の国王に国同士の交流をしたいと働きかけていましたが、当時の朝鮮は江戸時代の日本のように鎖国をしており、新政府の要請を断り続けていたのです。

これに国のプライドを傷つけられたと感じた新政府の中で、朝鮮への対処をどうするか意見が交わされます。

 

その中で隆盛は、まず自分が代表として朝鮮に行き、交渉が上手くいかなかったらその時に日本から兵を出す、という提案をしました。

それで一度は新政府内の意見がまとまりますが、そこに使節団として欧米を訪れていた岩倉具視や大久保利通が帰国。

隆盛の意見に反対したのです。

 

 

征韓論で意見が分かれギクシャクする新政府。

自らの意見が通らなかった隆盛は、ついに新政府での地位を捨てて、鹿児島に帰ることを決断します。

 

鹿児島で私学校を設立するも…思わぬ誤算

鹿児島に帰った隆盛は、この翌年「私学校」という学校を設立します。

 

私学校は銃隊学校と砲隊学校で構成され、銃隊学校は隆盛と同じく新政府を辞した篠原国幹(しのはらくにもと)がトップとなって500~600人を集めていました。

一方、砲隊学校は同じく新政府を辞した村田新八がトップとなって、砲兵隊出身者を中心に200人を集めています。

 

私学校は、新政府によって特権を奪われた武士たちの不満を抑えるために設立された学校でしたが、その教えに感動した生徒がどんどん集まり、設立の翌年には本校に2000人、分校も入れると30000人に膨れ上がっていました。

 

 

こうなると中には言うことを聞かない生徒も出てくるもので、この後、隆盛は大変な事態に巻き込まれてしまうのです。

 

明治10(1877)年の1月、鹿児島に不平士族が集まる情勢が危険と判断した新政府は、船を鹿児島に派遣し、弾薬庫から4000発の弾丸を運び出そうとしていました。

ところがそれを私学校の生徒たちが見つけて妨害し、弾丸を奪い去ってしまったのです。

 

さらに彼らは船も襲って弾薬を奪い、翌日には造船所を襲って弾薬や雷管(爆薬や火薬を爆発させるために火を点ける装置)を奪いました。

もうこうなるとどうすることもできません。

隆盛は狩りの途中で知らせを受けて鹿児島に戻り、事態はここから西南戦争になだれ込みます。

 

西南戦争が始まった原因

翌月の15日、隆盛率いる15000人の薩軍は大雪の中、鹿児島を出発しました。

薩軍は22日に熊本城を包囲。

中村半次郎(桐野利秋)の指揮のもとに総攻撃を開始するのですが、これに新政府軍は砲撃で応戦します。

 

中村の他に篠原や別府晋介などの部隊なども参加した攻撃はすさまじいものでしたが、それに熊本城は耐え続けます。

さすがは加藤清正が建てた難攻不落の名城です。

 

熊本城での薩軍と新政府軍の激しい戦いは、50日以上続きました。

 

熊本城総攻撃と同じ日に始まった、植木(現在の熊本市北区植木町)の戦いに勝利した薩軍は、現在の玉名市高瀬で新政府軍と激突します。

西南戦争の勝敗が決まったといわれているこの高瀬の戦いは、新政府軍の勝利に終わり、隆盛はこの時に弟の小兵衛を失ったのです。

 

越すに越されぬ…民謡にも残る田原坂の戦い

3月4日、切次峠(現在の玉名郡玉東町)で篠原国幹が戦死。

同じ日に現在の熊本市北区植木町にある田原坂で、西南戦争最大の激戦が始まります。

 

田原坂というのは加藤清正が作った熊本城へ続く坂道のこと。

細い上り坂なので大軍が一度に攻撃を仕掛けることができないので、数に劣る薩摩軍が有利に戦える戦場でした。

 

ここを突破されると熊本城への道が開かれるため、薩軍にとっては絶対に負けることができない戦い。

のちに「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」の歌詞で知られる民謡にもなったこの戦いは17日間におよびます。

 

薩摩軍は多くの戦いをくぐり抜けてきた士族(武士)が中心でしたが、新政府軍は一般人から採用された軍隊。

実戦経験が乏しく、薩摩軍の前には刃が立たなかったと言われています。

 

そのため、新政府軍の山県有朋が警察官となっていた士族(元武士)を招集。

抜刀隊として奇襲攻撃を仕掛けさせ、遂に薩摩軍を敗走させます。

 

田原坂の戦いは新政府軍が勝利しますが、3000人の犠牲を出すことになります。

 

関連記事→山県有朋の奇兵隊での出世と西南戦争での西郷隆盛に対する葛藤!!

 

退却を続ける薩軍はついに鹿児島へ

4月15日、新政府軍が熊本城に入城し、薩軍は全面的な退却を余儀なくされます。

人吉盆地に移った薩軍はここで2年耐えるつもりでしたが、新政府軍の猛烈な攻撃ですぐに陥落。

 

この後、薩軍は宮崎各地を移動しますが、8月16日に隆盛が解散の命令を出したことで、軍の半数が降伏します。

残りの半分で新政府軍が守る可愛岳(えのだけ。現在の宮崎県延岡市)を突破した薩軍は、8月29日、ついに鹿児島に戻るのです。

 

隆盛の最期の地・城山

9月1日、薩軍は城山に陣を敷きます。

鹿児島を出た時には15000人だった兵は、この時点で約370人にまで減っていました。

 

対する新政府軍はその10倍の人数で城山を包囲。

立てこもりを続ける薩軍の中で、せめて隆盛だけでも助けたいという意見が出てきます。

 

しかし隆盛はそれを拒否。

新政府軍は「全員降伏しなければ総攻撃を開始する」と宣言し、9月24日、薩軍の陣地めがけて総攻撃を開始したのです。

 

隆盛や中村半次郎、別府晋介など生き残った薩軍の兵たちはこれに応戦しますが、圧倒的な戦力の前に次々と屈し、隆盛もお腹と股に銃弾を受けてしまいます。

 

西郷隆盛がこもった洞窟

 

覚悟を決めた隆盛は別府晋介の方を振り返り、

「晋どん、もうここらでよかろう」

と言ってその場に正座すると、東の方に手を合わせた後、別府の手助けを借りて自ら命を絶ったのです。

 

こうして西南戦争は終わりを告げました。

 

明治維新を境に起きた、急激な変化への抵抗だった西南戦争。

新政府軍に追いつめられた隆盛は、城山で最期の時を迎える直前にどのようなことを思ったのでしょう。

 

関連記事→西郷隆盛の最期の様子と介錯後の首の行方!

 



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