賤ヶ岳七本槍の平野長泰(近藤芳正)が出世できなかった理由とは?

加藤清正や福島正則と同じく賤ヶ岳七本槍に選ばれながらも出世の度合いとしては大きく差をつけられてしまた平野長泰。

 

同じく七本槍の1人で真田丸にも出演している片桐且元らもそうですが、加藤清正や福島正則とは知名度にも大きな差があります。

 

平野長泰と清正らの間にはどういった差があったのでしょうか?

 

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長泰自体は七本槍に数えられながらも知名度はいまいちの武将。

 

しかし、今回の真田丸で近藤芳正さんが演じている長泰は小者感が半端ないけどどこか憎めないキャラになっています(笑)。

 

そのため、意外と真田丸から人気が出そうな気もします。

 

では、この平野長泰とはどういた人物で、どうして秀吉に仕えることになったのでしょうか?

 

平野長泰とは

平野長泰の家系は、先祖を遡ると鎌倉幕府の執権・北条時政にまで遡ると言われています。

 

時政から数えて14代の横井宗長が姉婿の平野業忠の平野氏を継承したことから、以来彼の家は平野氏となります。

 

長泰の父・長治(ながはる)は当時織田信長によって領地を追われていた平野氏の当主の養子となったことで、以後平野長治と名乗るようになります。

 

それから数年後に生まれたのが、平野長泰ということになります。

 

かつてはそれこそ名門といえる家柄だったようですが、長泰が生まれた頃には既にそんな名声は過去の遺物となっていたようです。

 

長泰が生まれたのは1559年(永禄2年)、この翌年には桶狭間の戦いで信長が急激に勢力を拡大するようになります。

 

若き日の長泰は、最初父に従って信長に仕えていたようです。

 

しかし、20歳前後の彼の事績は殆ど伝わっていません。

 

彼が何歳から実際に働き始めたのかはわかりませんが、少なくともこの時点では取り立てて名が残るような人物ではなかったのは間違いありません。

 

何せ、まだ20歳そこそこのペーペーなのですから、当然といえば当然でしょう。

 

間もなく信長が本能寺の変で死去すると、彼の主君は自動的に秀吉に移っています。

 

というのも、父・長治は秀吉の下で姫路城の守備を命じられていたからです。

 

この時点の長泰は、差し詰め姫路城守備部隊の一部隊長くらいが関の山でしょう。

 

加藤清正福島正則と比べても、まだそれほどの差はないでしょう。

 

長泰が秀吉に仕えた境遇は、おおざっぱに言うと父からの二代に渡る奉公というべきでしょう。

 

賤ヶ岳七本槍のその後

1583年(天正11年)、織田家の後継者の座を巡って羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まり、ついに2人は賤ヶ岳で直接対決することになります。

 

この時、秀吉配下の子飼いの武将達が最前線に出て大活躍することになり、その中には長泰の姿もありました。

 

長泰はこの時の活躍をもって、加藤清正、福島正則らと並んで「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる7人の猛将達として後世語り継がれています。

 

しかし、七本槍の出世競争には大きな格差があり、福島正則や加藤清正は財政・民政の分野でも能力を発揮してどんどん出世していきますが、残る加藤嘉明、片桐且元、糟谷武則、脇坂安治はそれほど目立つ大出世はしていません。

 

では、長泰はどうなったかというと、実は賤ヶ岳の後何をしたかというのが一番よくわかっていません。

 

武勇こそあれど、彼がそこからさらに一歩出世するような功績がイマイチなかったのでしょか?

 

賤ヶ岳七本槍は、賤ヶ岳以降はっきりと明暗が分かれてしまい、長泰はこの時点で、少し出世から遠ざかったような印象を受けます。

 

関ケ原の戦い

賤ヶ岳七本槍の出世レースは、秀吉が天下統一を果たすとさらに差が開くようになります。

 

清正、正則は既におよそ20万石の大名となっていました。

 

加藤義明は伊予10万石、脇坂安治は洲本藩3万3千石の大名です。

 

残る糟谷武則、片桐且元、そして平野長泰は馬廻衆、目付などの後方支援に回されており、正直あまりぱっとしない遍歴を経ることになります。

 

関ケ原の本戦が始まると、長泰は三成から離れて家康に付き、秀忠の徳川本隊に従軍しています。

 

結果的にこれが長泰にとっての不幸となり、秀忠率いる本隊は真田昌幸の抵抗によって関ケ原の本戦には到着できなかったため、大名へ出世することはできませんでした。

 

一方、加藤清正、福島正則、加藤嘉明は新たな領地を手に入れています。

 

平野長泰は賤ヶ岳七本槍で唯一大名になることなく生涯を終えることになります。

 

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まとめ

賤ヶ岳七本槍といっても、立場が同じなのは最初だけであとは全く違う結末を辿ることとなりました。

 

平野長泰は唯一大名になることもなく、親豊臣の態度を崩すことがありませんでした。

 

関ヶ原で家康についたのは、家康なら豊臣家を守れるのではないかという淡い期待があったのでしょうか?

 

それとも、清正や正則みたいに三成憎しの思いがあったのでしょうか?

 

いずれにしても、彼が名を挙げるには今一つ突出した能力に欠けていたようです。

 

大名になっていない旗本や側近の活躍は、元来それほど記録に残るものではありません。

 

平野長泰のように、最初は華やかな名声を得たにも関わらず地味に終わった人物は、歴史の中ではいったいどれだけいるのでしょうか?

 

ちなみに、加藤家・福島家はその後徳川に仇なす危険分子として改易されてしまいます。

 

勝って滅んだ家もあるように、平野長泰を見ていると人間何が正しいのか考えさせられるような気がします。

 

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