真田昌幸が秀吉に服属することを決めてから、信繁は上杉景勝から豊臣秀吉の人質として大坂城に留め置かれることとなります。
人質といえば何もすることなく軟禁という響きですが、真田は別に滅ぼされたわけでもなく豊臣に恨みを持たれていたわけでもありません。
大坂編に入ってからの『真田丸』は、史料からはあまり判然としない秀吉時代の信繁を描いています。
では、秀吉はどのように信繁を扱っていたのか?
後に大坂の陣で共に徳川と戦うこととなる茶々とはどのような出会いがあったのか?
今回は、信繁が大阪城にいた頃に人間関係について考察してみたいと思います。
信繁は秀吉に可愛がられていた?
昌幸が秀吉に服従すると信繁は人質として大坂に入ります。
しかし、大坂での信繁については僅かな記載しか残されていません。
彼は大名家の次男、それも地方豪族レベルなので、それほど注目されていなかったというのが大きな理由です。
しかし、信繁は秀吉恩顧の大谷吉継の娘を妻として迎えています。
そして小田原征伐にも参加し、昌幸とは別に三成の指揮下に入って『のぼうの城』で有名な忍城攻めに参加したと言われています。
また、近年の研究では、秀吉の馬廻衆に入って独立した知行を与えられていたということが分かりました。
ここから、信繁が無力で純粋な人質というよりは秀吉に側近として仕える官僚予備軍のような存在だった事が分かります。
人質時代に信繁と茶々との面識はあったのか?
茶々といえば秀吉の側室、普通なら臣下の目に触れるようなことはない存在です。
馬廻衆だった信繁がどこまで奥向きのことを把握していたかは疑問が残りますが、
「秀吉の側近であるなら側室とも面識があっておかしくはないだろう。」
という解釈でドラマは描かれています。
しかし、天下人の側室がそうそう簡単に衆人の前に姿を現すかといえば答えはNoでしょう。
馬廻衆がどのような勤務形態でどのように暮らしていたかはよくわかりませんが、私は側近といっても彼らが終日秀吉の側にいたとは考えにくいと思います。
小姓ならまだしも、信繁は馬廻衆でしかも妻帯者。
一応は立派な家長です。
おそらく大阪にちゃんと居住地を与えらえてそこから通っていたのだと考えられます。
さらに側近が奥向きのところまで付いていくとは考えにくいです。
なので、茶々と信繁は「顔を知っている程度で、ほとんど話をしたことがない。」というのが正直なところだと思います。
茶々といえば、古くから豊臣悪の方針から大野治長や石田三成といった複数の人物と繋がりがあったとする俗説が思い起こされますが、とても信繁とそのような関係に陥るとは考えにくいです。
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きっと、信繁と茶々の関係は少なくとも人質時代においてはそれほど深いものではなかったでしょう。
大坂の陣で茶々は信繁を信頼していたのか?
時は流れて、大坂の陣になると茶々は徳川に対抗するために徳川によって追放された浪人を集めて対抗する構えを見せます。
そこに、かつて大坂城にいたことがある信繁の姿もありました。
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茶々は信繁に黄金200枚、銀30貫を贈って大坂城に来るように仕向けたのです。
信繁にとっては家康は戦いたくて仕方が無かった相手、信繁はすぐさま上田に帰っていた父の旧臣を九度山に呼び寄せて大阪に向かいました。
大坂の陣が始まる時点での信繁の評判として知られていることは、家康が真田が九度山から脱出して大坂に入った事を聞き「して、あそこにいるのは父か子か?」ということを確認しました。
しかしすぐに「そういえば親父はもう死んでたな。」と言って安心したという話があります。
信繁は確認できるだけでまだ数回の戦しか経験していません。
第二次上田城の戦い関しても、大将は昌幸だったので信繁にそれほど知名度がある訳ではありません。
いざ冬の陣が始まった時、大坂城の家老達は堅牢でなる大坂城に籠り徳川軍の疲弊を待つ作戦を提案しました。
対して信繁ら浪人衆は籠城よりも打って出て京都を支配下に置き先手を取る方法を提案しました。
待っていてはすぐに包囲されることを見抜いていたからこその作戦でしたが、家老や茶々は少なくとも自分よりは経験豊富な彼らの意見を聞かずに籠城を決め込みました。
この時点では茶々が信繁を信頼していたとは言い難いでしょう。
作戦を反故にされた信繁は、仕方なく大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる出丸を築き防衛に専念することとなります。
真田丸という目立つ拠点を置くことによって徳川軍の注目は信繁に集まることとなり、冬の陣では徳川軍は大坂城を落とすことができませんでした。
真田信繁は、ここでようやく名を天下に知らしめることとなるのです。
しかし、肝心の豊臣軍では信繁があまりに徳川軍に近い所にいたことから信繁が寝返る準備なのではないかと疑っていたというのです。
ここから、茶々は決して信繁を決して信頼していたわけではなかったということが見えてきます。
翌年に家康が再び大坂攻めを決定すると、家康は戦を辞める条件として「大坂を騒がしている浪人の追放」もしくは「豊臣家の転封」を提示しました。
勿論、どちらを選ぼうが豊臣家に生き残る道はありません。
茶々はこれには騙されたと感じて「和議など読めるわけがない、今後は拒否させていただく」との意見を表明しました。
すると、いよいよ徳川軍は大坂に集結し豊臣を滅ぼす気満々でやってきました。
和議の際に追放された浪人もいたので、冬の陣の頃と比べても戦力ががっくり落ちていた豊臣軍ですが、今度は籠城などという悠長なことを言えず、信繁の提案した野戦による突撃を承認せざるを得ませんでした。
こうして、信繁の突撃が行われることになるのです。
結果として、夏の陣の時には信繁を頼らざるを得ない状況だったというのが本音でしょう。
豊臣軍は実戦経験のない幕僚ばかりが指揮を執っていたので、優秀な武将とはいえ浪人に指示を仰ぐことを快く思わなかったのかもしれません。
その意味で、茶々が信繁を手放しで信頼していたかといえばNoだと思います。
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まとめ
いかがでしたでしょうか?
ドラマでは本来身分の違いや境遇の違いで会うことのないはずの人達が会話を交わすことで演出効果を高めています。
しかし、信繁と茶々はどうあっても本来ならそれほど面識もなく会うこと自体がある種の奇跡だったのかもしれません。
昨今ではゲームなどで本来ないはずの人の組み合わせがいとも簡単に実現されますが、現代の政治家や国主が皆が皆面識があるわけではないのと同じように、歴史上の人物も本当の所はどれだけの人と面識があったのでしょうか?
だからこそ、文書によって繰り広げられる微妙な外交が当時の時代において重要だったことが少し覗けますね。
とはいえ、ドラマでの彼らがこれからどのような展開を作り上げていくのかは楽しみです。