誰しも取り返しのつかない失敗をしてしまったということはあります。

しかし、もし取り返しのつかない失敗をしてしまったとしても失敗から学んでさらに成長することができるはずです。

 

少なくとも斎藤龍興、という人物について知るとそれがわかります。

斎藤龍興と聞くと少々歴史に詳しい方であれば、「織田信長に負けたんだよね?」「あぁーあの半兵衛に城を取られた人か」とか思われるかもしれません。

 

確かに、斎藤龍興は竹中半兵衛に城を乗っ取られ、織田信長に敗北するなど停滞失敗を続けています。

では彼は果たしてその失敗含めた数々の失敗からどう成長したのでしょうか。

 

今回は斎藤龍興という人物について迫ってみましょう。

 

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生誕から家督相続後まで

龍興は天文17年、西暦1548年に美濃で斎藤義龍と近江の方との間に生まれます。

義龍が道三を討ち果たして斎藤家を相続したのが1556年なので、龍興が9歳の時に父が祖父を殺すという事件があったことになります。

 

しかし、父、義龍の治世もあまり長くは続かず、それから約5年後1561年に急死。

斎藤龍興は14歳という若さで美濃国の大名として君臨することになります。

 

斎藤龍興の画像
斎藤龍興

 

中学2年生ほどの子供が領国経営……、子供店長なんて騒ぎじゃありません。

恐ろしい時代です。

 

ですが相手が子供だからといって美濃を取り巻いている怖いおじさんたちが容赦をすることはありません。

龍興は父からの代の宿敵であった織田信長との戦いに集中するため、自分の背後に当たる浅井家と同盟を組もうとします。

 

しかし考えることはみんな同じ、実は信長も浅井との同盟を考えており、1564年(異説アリ)には妹のお市の方を浅井家の浅井長政と政略結婚までさせていました。

そのため、斎藤家は織田家だけではなく織田と手を組んだ浅井の侵攻にも備えなければならなくなってしまいます。

 

超優秀な家臣団を持っていた龍興

しかし斎藤龍興にはひとつ強みがありました。

というのも当時斎藤家には後に名将と呼ばれる優秀な武将たちが多数在籍していたことです。

 

例えば、道三の代から斎藤家に仕えて様々な戦場で活躍する安藤守就、氏家卜全、稲葉一鉄という美濃三人衆。

知将と呼ばれ鉄砲の達人でもあった明智光秀、後に信長にも使え、攻めの三左とも呼ばれる槍の達人森可成。

それに後に秀吉に仕えた軍師と知られ『敵を制すること神のごとし』とまで言われる竹中半兵衛などがいました。

 

特に竹中半兵衛などはこの頃から既に頭角を現していたようで、新加納の戦いではおよそ6000の兵で攻めてきた織田信長の軍勢に対して3500の軍で出陣。

十面埋伏と呼ばれ、わざと伏兵のある場所を敵に通過させた後に四方八方から攻めるという伏兵戦術で追い返すなどの武功をあげています。

 

しかし龍興はこのような優秀な部下たちを手足のように使いこなせる人物ではありませんでした。

 

龍興がこの当時重用していたのは斎藤飛騨守という、奸臣を絵に書いたかのような人物。

斎藤飛騨守は自分の領土を守るため龍興の言うことを全肯定するただのイエスマンだったようです。

 

しかもほかの家臣に対しては非常に冷淡で、竹中半兵衛におしっこを引っ掛けたなんて話もある・・・。

典型的な強いものには弱く出て弱い者には強く出るタイプのようです。

 

これ職場にいたら一番嫌われる奴や……。

 

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竹中半兵衛の謀反と家臣の離反

前述の新加納の戦いの褒賞などもなく、斎藤飛騨守とともに自分を馬鹿にする斎藤龍興に半兵衛がついにキレます。

 

1564年に半兵衛は舅の安藤守就とも協力し有名な稲葉山城の乗っ取りを決行。

たったの16人で城を完全制圧します。

 

稲葉山城の写真
龍興の居城だった稲葉山城(現在の岐阜城)

 

完全に油断してしまっていたため斎藤龍興は部下とともに逃走し、斎藤飛騨守は安藤守就に斬られます。

その後信長から稲葉山城を引き渡すよう要求された半兵衛でしたがこれを拒否してまもなく稲葉山城をあっさりと龍興に返還。

自身は近江の方に隠居してしまいます。

 

さて、この体験を経た龍興。

さすがにこれに反省するかと思いきや、態度を改めることはりませんでした。

 

1565年には信長はついに本格的な美濃攻略に乗り出し始め離反者も多くなってきます。

例えば森可成は既に前から織田になびいてましたし、さらに隠棲していた半兵衛も当時信長の部下であった秀吉の与力となり、そして更には美濃三人衆までもが龍興を信長に寝返る事態となっていました。

 

もうむちゃくちゃです。

結局1567年に織田信長は多くの元斎藤家家臣と協力して難攻不落の稲葉山城を陥落させ大名としての斎藤家は滅びました。

 

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まだだ!まだ終わらんよ!

さて、普通の戦国大名であればここでお話は終わりなのですが、彼の物語はここで終わりではありません。

というのも信長がなぜか龍興を殺さなかったからです。

 

もしかすると

「龍興は暗愚だし生かしといても大丈夫かな」

と思ったのかもしれません。

 

しかし、もしそう考えていたとしたらそれは大きな間違いでした。

斎藤龍興は再び信長の前に敵として立ちはだかることになるからです。

 

最初に信長の前に姿を現したのは稲葉山城が落ちて2年後の1569年、おなじく信長の前に敗れた三好三人衆とともに本圀寺の足利義昭を襲った時でした。

当時足利義昭を奉じて京への上洛を果たした信長でしたが、その権威は義昭あってのもの。

 

義昭が死ねば信長はその権威を失うという政治的判断による攻撃でした。

結局本圀寺の変自体は援軍の到着などによって失敗に終わったものの、その戦いは信長たちに、これまでの龍興とは違うということを印象付けるには十分なものでした。

 

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信長の天下取りを10年遅らせた男?

次に斎藤龍興が現れたのは1570年、摂津の野田・福島という場所でした。

まず三好三人衆が織田家を攻める足がかりとして野田・福島城を築城し始めたのがきっかけでした。

 

当然信長もこれを阻止するべく出陣しますが、この野田・福島城は三方を川に囲まれたデルタ地帯で軽々しく攻撃することができません。

さらに三好側には鉄砲傭兵集団の頭目として知られる雑賀孫市なども参陣しており、信長が攻め寄せてくるのを今か今かと待ち構えていました。

 

その後前線をとったり攻められたりという小競り合いが続きますが、9月6日に予想だにしない出来事が起こります。

 

なんとこれまで中立を保っていた石山本願寺の本願寺顕如から檄文が出され、しかも12日には石山本願寺軍が信長軍を攻撃し始めます。

実は野田・福島城は石山本願寺からたったの4km程の位置に有り、このことから斎藤龍興は石山本願寺と何らかの密約を交わしていたのではという説もあるのですが、なぜこのようなグッドタイミングで石山本願寺が挙兵したのかは定かではありません。

 

ともかくこれによって劣勢だった斎藤龍興や三好軍も息を吹き返して信長軍に攻撃を加え始めるのです。

これにより織田信長と石山本願寺との間の、後に石山合戦とも呼ばれることになる10年にも渡る非常に信長にとって苦しい戦いが始まるのです。

 

引用:野田城、福島城の戦いの配陣図/大阪城天守閣蔵

 

龍興は先の時代の敗北者じゃけぇ…(赤犬風)

織田信長に対抗し続けた斎藤龍興。

その最期は1573年に訪れます。

 

畿内で信長と戦っていた斎藤龍興は朝倉家に客将として仕えていました。

しかし1573年に信長が朝倉攻めをした際の刀根坂の戦いで追撃を受け討ち死に。

享年26歳でした。

 

こうして短い人生を終えた龍興でした、が彼の引き起こした野田・福島城の戦いは前述の石山合戦と呼ばれる信長と一向宗の長きに渡る戦いを引き起こし、信長の西方進出を大幅に遅らせることになります。

 

最終的に信長との戦いに敗北した龍興でしたが彼は自分の知らないところで戦国武将としては非常に大きな爪痕を残していたのでした。

宣教師のルイス・フロイスは斎藤龍興に関して「非常に有能で思慮深い」人物だと述べました。

 

たった16人で城を取られた武将、はたまた信長の天下取りを大幅に遅らせた武将。

彼の生き様を振り返ると、愚将とか名将とか、そういう陳腐な言葉では言い表せない大きな魅力と可能性を秘めている人物のひとりであると言えると思います。

 

斎藤龍興が出てくるおすすめ作品

『信長の忍び』

歴史漫画家としていくつか漫画を書いてらっしゃる重野なおき先生の書いておられる4コマ漫画形式の歴史漫画です。

斎藤龍興も登場するのですが、美濃の時代はぐうたらなバカ殿。

 

畿内編では作画崩壊かというレベルで、もとい文字通り生まれ変わったイケメンライバルのような風貌で登場しております。

 

「信長の忍び」はU-NEXTという動画配信サービスのトライアルを利用するれば、無料で視聴することができます。

重野先生の歴史漫画はどれも面白くまたわかりやすいため非常におすすめです。

 

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