黒田官兵衛と並び、天才軍師と称される竹中半兵衛。

しかし、竹中半兵衛に関しては後世の創作が多く、正確な人物像は分かっていません。

 

軍師とは戦術を練ったり、作戦を立てるなど、参謀的な存在ですが、果たして竹中半兵衛の実像もそういった軍師に当てはまるものだったのでしょうか?

 

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勝率100%?スーパー軍師だった竹中半兵衛

竹中半兵衛は「昔楠木、今竹中」(過去ならば楠木正成、現在ならば竹中半兵衛が一番)と言われた名軍師でした。

実際、半兵衛が軍師として差配した戦はほとんど負けなしと言えるでしょう。

 

天才的な戦略を持ち、なおかつ生涯を軍師という縁の下の力持ちとして全うした竹中半兵衛。

見た目も信長の小姓で美男で有名な森欄丸と並ぶイケ面で、出世欲のない男であったようです。

 

そもそも軍師ってなに?

竹中半兵衛をはじめとして、黒田官兵衛、山本勘介、直江兼続など、戦国時代を語るのに”軍師”という存在は欠かせないものです。

しかし、当時は軍師という言葉はなかったようです。

 

もともと軍師というのは、古代中国の戦の中で占いによって戦況を判断したりする存在のこと。

私達がイメージしている、作戦のアドバイスをする参謀的な役割の人は「軍配者」と呼ばれていたようです。

 

殿様が総理大臣ならば、軍師は官房長官といったところでしょうか?

いずれにしても、戦の行方を左右する重要な存在であったことは間違いありません。

 

竹中半兵衛の生い立ち

竹中半兵衛は美濃の国(現在の岐阜県)生まれで、竹中家は斉藤道三に仕えていました。

父・竹中重元が地元の豪族である岩手氏を滅ぼして菩提山城を築城。

以降三代にわたり居城としています。

 

半兵衛は、細身で女性のような印象であったと伝えられていますが、剣術も免許皆伝の腕前だったようで、今で言えばスケートの羽生君のような感じだったかもしれません。

斉藤道三の死後はその家督を継いだ龍興に仕えることになりました。

 

織田信長を撃退する

1563年に斉藤龍興は半兵衛の戦略で織田信長を撃退しています。

作戦名は「十面埋伏の陣」(じゅうめんまいふくのじん)。

 

三国志で曹操が猿紹を退けた、孫子の兵法にも出てくる計略で、軍隊を10に分け、一つの軍を囮としてその他の軍で次々と相手の意表をついて攻撃するという作戦です。

当時では見られなかった画期的な先方で織田軍を圧倒したようです。

 

わずか16人で稲葉山城を乗っ取る

竹中半兵衛の有名な逸話は難攻不落と言われた稲葉山城の乗っ取りです。

竹中半兵衛の主君、斎藤竜興が政治に関心を示さず酒に溺れた生活を送っていたある日、竹中半兵衛は手勢16人だけで、難攻不落と言われた稲葉山城を乗っ取ります。

 

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稲葉山城にいた弟に病気になったように装わせ、見舞いと称して稲葉山城に侵入。

城内で見舞いの届け物の中に隠しておいた武器や防具をまとい、そのまま稲葉山城を征圧してしまったのです。

 

しかしこれは、酒色に溺れる竜興を諫めるためであったとして、後に城を竜興に返還しています。

 

こういったことから、半兵衛は無欲な天才軍師というイメージがついていますが、実際は稲葉山城を乗っ取った後、自分達で政治を行おうとした形跡があります。

城を返却したのは領国経営が上手くいかなかったからだと言われています。

 

秀吉との出会い

1570年頃近江の浅井、越前の朝倉攻略に手間どった織田信長は、木下藤吉郎(羽柴秀吉)を松尾山の半兵衛の元に向かわせ、家臣になるよう説得をします。

この時半兵衛は、三顧の礼をとった秀吉の人物に惚れ込み信長ではなく、秀吉に仕えるという選択をしたといわれています。

 

しかしこれは大河ドラマでの逸話で、実際には織田に仕えて、浅井・朝倉攻略後に信長の命により秀吉に仕えたようです。

いずれにしても、半兵衛は浅井家の人脈を活用し、次々と浅井家の家臣を凋落して織田の勝利に大きく貢献しました。

 

長篠の戦いで危機一髪

長篠の戦で武田軍の攻勢にあせった秀吉が軍を動かそうとしたことがあります。

しかし半兵衛はこれに反対し、出陣する秀吉に逆らって陣を出ませんでした。

 

すると半兵衛の読みどおり、秀吉が陣を離れるのを見計らって武田軍が襲い掛かってきました。

半兵衛がなんとか応戦している間に秀吉軍があわてて帰還。

 

半兵衛が正しかったと秀吉が認めたという逸話があります。

その後半兵衛は体調を崩し、京に戻って養生することを秀吉は勧めるが、「陣中で死ぬことこそが本望。」と最期まで戦場に立ち続けたといわれています。

 

半兵衛の名言

半兵衛は軍師でありながら、いつも貧相な馬に乗っていたそうです。

秀吉がもっといい馬に乗ったほうが良いのではと言うと、

 

「名馬を買っては戦場で馬が惜しくなり下りられなくなります。馬は乗り捨てる覚悟なのでこれがいいのです。」と答えたそうです。

 

またある日、黒田官兵衛が秀吉が約束した恩賞がいつまでも実現されないことに怒って、秀吉の書状を持って抗議に来たことがあります。

 

すると半兵衛はその書状を燃やしてしまい、「こんな書状があるから不満が募るのだ。」と言って、官兵衛を諭したとされています。

 

黒田官兵衛の息子・長政を助ける

毛利攻めのため中国地方に派遣された竹中半兵衛は、調略で毛利方の城を降していました。

そんな中、有岡城で荒木村重が謀反を起こし、説得に向かった黒田官兵衛が、村重に捕らえられ幽閉されてしまいます。

 

信長は村重の元から官兵衛が戻らないのは官兵衛が裏切ったからだと、人質に取っていた松寿丸(後の黒田長政)を殺すよう秀吉に命じます。

しかし、黒田官兵衛を信頼していた半兵衛は、信長には松寿丸を殺したように見せかけ、実際は自分の下で庇護していました。

 

これは、完全に信長を欺いたことになるのですが、後に官兵衛が囚われていたことを知った信長は、半兵衛のおかげで過ちを犯さずにすんだと、とても喜んだと言われます。

 

しかし、官兵衛が有岡城から救出された時には、竹中半兵衛は病気のため陣中で亡くなっていました。

 

 

秀吉の軍師は竹中半兵衛から黒田官兵衛へ

信長の命令に背いてまで官兵衛の息子を守った竹中半兵衛。

その半兵衛が亡くなったと聞いたときの官兵衛の気持ちはいかばかりだったでしょうか?

 

同じ参謀型の武将として半兵衛を手本としていた官兵衛にとっては、受け入れたくない事実だったと思います。

 

一説によると、半兵衛が死ぬ前に官兵衛の事を心配する手紙を書いていたそうです。

そして、官兵衛は半兵衛の形見分けで、軍配と軍団扇を受継ぎます。

 

軍団を指揮するときに使う軍配。

これを官兵衛が受継ぐということは、半兵衛から秀吉の軍師を受け継ぐという意味なのかもしれません。

 

一連の半兵衛の気遣いに感謝した官兵衛は、竹中家の家紋を黒田家の家紋として譲り受け、竹中半兵衛の子供、重門の烏帽子親も務めています。

 

黒田官兵衛と竹中半兵衛の違い

黒田官兵衛は「自分は槍や刀を取って戦うことは得意ではなかったが、采配を振るって多くの敵を打ち取ることが得意だった。」と語っています。

そのため、陣幕の中や陣の中盤にいて、戦況を眺めて采配を振るう事を得意としていました。

 

しかし、竹中半兵衛は秀吉と作戦や戦術を話し合った後は、先陣として出陣し、最前線で敵と戦っていたようです。

なので、大将の傍で作戦を練り献策をするという、一般的な軍師、参謀のイメージとは少し違っているかもしれません。

 

半兵衛が刀を振るって戦っていたことを考えると、智略だけでなく槍働きに長けていたことも分かります。

ただ、半兵衛の軍略は当時から群を抜いていたようで織田家中でも評判でした。

 

 

柴田勝家も納得する軍略の才

ある時、半兵衛の軍略を疑う柴田勝家や滝川一益が、半兵衛が毛利攻めの大将だったらどうのように攻略するか質問しました。

 

すると半兵衛は毛利の兵力や情勢、動向を分析し、攻略方法を説明しました。

この説明があまりにも的を射ていたので、勝家や一益は感心するしかなかったと言います。

 

また、半兵衛は相手の心理を巧みに利用する事も心得ていて、自分の陣立てや作戦に口を出されるのを嫌う武将には、まず褒めることから始めたそうです。

 

「この陣立ては素晴らしい。」

「この作戦は実によく考えられている。」

 

軍略の天才、竹中半兵衛にこう言われると、日ごろ半兵衛の事をよく思っていない武将も気分がいいものです。

そこで、「こうすればもっと良くなりますよ。」と言って、陣立てを変えてしまうということがあったようです。

 

そのへんの頑固で偏屈な武将たちより、半兵衛のほうが一枚も、二枚も上手だったようですね。

 

死因は何?竹中半兵衛の最期!

竹中半兵衛の死因は肺結核と言われ、三木城攻めの最中に36歳でこの世を去ります。

一度は京都に戻り、病気療養に努めたと言われていますが、自分の死期が近い事を悟ると三木城攻めの陣に戻ります。

 

心配する秀吉に「どうせ死ぬのであれば武士として戦場で死にたい。」と言ったと伝わっています。

現在の三木城跡近くにぶどう園があるのですが、そこに竹中半兵衛の墓所が地元の人々に大切にされながら残っています。

 

今もお供え物や花が絶えないそうで、現代における竹中半兵衛の人気の高さが窺えます。

 



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