「織田信秀って誰?」と、そう聞かれたら、あなたはなんて答えますか?

「織田信長の親父だよ」と答えられる方。なるほどさすがです。

 

では、「へぇ、どんな人なの?なにしたの?」と聞かれたらなんと答えるでしょうか?

ちょっと返答に困ってしまいますよね?

 

そこで今回は、織田信長の実の父にして、信長が天下統一を行う基盤を作ったとも言える尾張の虎、織田信秀について見ていきましょう。

 

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那古屋城欲しいなぁ…せやっ!歌会したろ作戦!

織田信秀は永正8年、西暦1511年に織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家の織田信定の息子として生まれます。

当時は織田大和守家と呼ばれる守護代を務める家に仕える家柄で、信定は津島神社の門前町として栄えていた津島を支配下に置き、勢力拡大の基盤を作っています。

 

三日月

弾正忠(だんじょうのちゅう)というのは朝廷から授けられる役職のことです。

織田信秀、信長の家系は、代々、朝廷から授けられた「弾正忠」を名乗っていた訳ですね。

信秀が家督を継いだのは1526年か27年。

おそらく16,7歳といったところです。

 

この時信秀は父・信定の築城した勝幡城を居城としていました。

しかし、さらなる勢力拡大を狙っていた信秀は那古屋城に目を付けます。

 

この時、那古屋は今川氏の城で、那古屋城にも当時まだ12歳だった今川氏豊(当時は竹王丸、今川義元の弟)が城主となっていました。

そこで信秀は1533年に歌鞠の指導という名目で公家の飛鳥井雅綱という人物を京都から招きます。

 

名古屋城の写真
信秀時代の那古屋城は現在の名古屋城の二の丸辺りにあったと推定されています

 

それに伴って鞠会や歌会などを連日開催することに。

もちろん蹴鞠や歌会をしたかったわけではありません……。

 

この催しに出席していた山科言継の書いた『言継卿記』によればこの催しには件の今川氏豊もちょくちょく顔を出していたといいます。

 

仮病を使って那古屋を陥落させる

『名古屋合戦記』という資料にはそれの後日談が載っていて、連歌を通して意気投合した信秀と氏豊。

最終的には信秀は連歌をするためにわざわざ那古屋城にお泊まりに行くほどの間柄となります。

彼女かな?

 

しかしこれこそが信秀の罠でした。

ある日、いつものように那古屋城に泊まりに来た信秀でしたが滞在中病と称して床に伏せってしまいます。

 

そこで家臣に遺言を残したいと言う信秀。

氏豊は可哀想に思って信秀の家臣が那古屋城に来るのを許可します。

 

しかし、信秀のお見舞いと称してやってきたのは完全武装の怖いお兄さんたち。

城下に火を放つわ外の味方と呼応して城に攻め込んでくるわどったんばったん大騒ぎ。

 

今川氏豊にいたっては武装することもできず丸腰のまま信秀の前に引き立てられてきます。

「さすがにちょっと可哀想……。」

 

信秀がそう思ったかどうか分かりませんが、命までは取らず城外追放にとどめました。

 

こうして那古屋城は信秀の手に落ちたのですが、陥落したのがいつなのかは良く分かっていません

そのため信長が生まれた場所もはっきりとは分かっていないようです。

(織田信長は1534年生まれ)

 

信長は那古屋城で生まれたという説と、勝幡城で生まれたという説があります。

それを表すように、勝幡城跡に「織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長像」が建てられています。

 

織田信秀と土田御前の銅像の写真
織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長像

 

もうすぐ戦が明ける。戦が明けたらどうなる?知らんのか?戦が始まる。

那古屋城を手に入れ、次に信秀が目をつけたのはお隣の三河でした。

当時の三河では名将として知られていた松平清康が死んだ直後。

 

跡を継いだ松平広忠(徳川家康のパパ)はまだ10歳という少年でした。

これにつけ込まない手はないと、信秀は西三河に侵攻、安祥城を攻め落とします。

 

これに対し危機感を募らせたのが駿河の今川義元です。

1542年今川義元は松平広忠の軍勢とともに安祥城を攻撃し、第一次小豆坂の戦いがおきます。

この時は信秀が勝利しますが、これ以降は織田氏と今川・松平氏との間に激戦が繰り広げられ、最終的には安祥城も奪われてしまいます。

 

次に領地拡大の野望があった信秀は、越前の朝倉氏と協力して美濃にも侵攻します。

大垣城を陥落させますが、斎藤道三の居城・稲葉山城では大敗。

 

そうこうしている途中で、今度は清須織田家が当時信秀が居城としていた古渡城に攻撃を仕掛けてきます。

なんという内憂外患。

 

……なんか色々とカオスですが、清須方とのいざこざは信長の教育役としても知られる平手政秀の活躍により和議が成立します。

 

朝廷に献金だってしてます(違法じゃない方)

このように書くとまるで戦ばかりの武将というイメージを持たれるかもしれませんが無論そういうわけではありません。

まず信秀は父信定のやり方を踏襲して、熱田神宮とその門前町を手に入れて財源を拡大。

 

さらにそのお金を朝廷や伊勢神宮への修繕費用に献金することによって中央に自らの顔を売っていくということもしています。

折しもこの時京の都では天分法華の乱などに代表される相次ぐ戦乱により、荒れに荒れて復興する費用すらもままならない状態。

そんな時に献金してくれる存在となれば公家や将軍の覚えめでたくなるのも想像には固くありません。

 

「朝廷に献金とかして何かいいことあんの?」と思われる方もいるかもしれませんが、実は朝廷とのパイプを作っておくことはとても重要。

朝廷による勅命講和(朝廷からの和睦命令)などを引き出すことができ、これが非常に強力な手段となっていました。

実際に信長も時々使っています。

 

そして信秀は時の将軍足利義輝にも拝謁します。

いつしか信秀は守護代のそのまた部下という家柄にも関わらず、守護代大和守家やさらにその上司の斯波家などよりも高い官位を貰うまでになっており、もはや尾張を代表する勢力とはなっていました。

 

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織田家の野望はまだまだこれからだ!

このように順調に勢力を拡大していく信秀でしたが晩年にはその勢いに陰りが見えてきます。

前述のように斎藤道三に大敗し、おまけに東には今川が、さらに西には大和守家との問題を抱えるようになって次第に孤立していきます。

 

信秀はこの状況を打開しようと1549年には斎藤家の斎藤道三の娘、帰蝶を織田信秀の息子織田信長に輿入れさせ、斎藤家と和睦。

しかし、それから1ヶ月後には今川義元の軍師太原雪斎が率いる1万の軍勢が安祥城に押し寄せ、城が落城してしまいます。

そしてこの時、信秀の息子・信広が捕まるという事件がおきます。

 

そこで信秀は松平氏の人質として預かっていた竹千代(のちの徳川家康)と信広を人質交換。

こうして信秀は西三河での勢力を失います。

 

負け戦の心労が重なったのか、信秀は病の床に倒れることになります。

そしてそのまま末盛城で死去。

 

葬儀は僧侶が300人はくるわ、信長が抹香を位牌に投げつけるわでなかなかに賑やかなものだったようですが、なんとなく戦国の世を駆け抜けた彼らしい葬儀だと思ってしまうと言ったら不謹慎でしょうか。

 

もちろん家督は信長が継ぎました。

個人的に当時うつけと言われていた信長を後継に選んでそのまま変えなかったというのが彼の一番の英断だったのではないかと思います。

 

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織田信秀の総評

しかしこうして振り返って見るとやっぱり信秀と信長って似てるなぁと思うのは私だけでしょうか。

 

信秀のやったこととしては

  • 朝廷とのパイプ作り
  • 経済力重視し商業を活性化させる
  • 時にはパフォーマンスをして人心を掴む

 

など。

またほかにも四方を敵に囲まれてもへこたれない打たれ強さや、子供をたくさんつくるところ、極力篭城せず打って出る戦術などなど、いろいろな面において親子で似ているところがあります。

 

もしかしたら信秀は信長に自分と似たカリスマ性を感じたからこそ弟の信行ではなく信長を跡取りに指名したのかもしれません。

子供を理解するのは本当に難しいという声を聞くことがよくありますが、そういう意味で信秀は武将として、そして一人の親として鑑と呼ぶにふさわしい一流の人物と言えるのかもしれません

 

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