高杉晋作にゆかりの史跡は日本全国にあります。
その中でも今回は萩と下関にある史跡を紹介します。
高杉晋作のルーツ「生家」
(山口県萩市南古萩町)
萩城からほど近い城下町の菊屋横町にあります。(二本向こうの江戸屋横丁には桂小五郎の家があります。)
一部は公開しており、晋作の産湯をとったといわれる井戸も保存されています。
円政寺
(山口県萩市南古萩町)
明治初期に神仏分離令があったにも関わらず、神社と寺が一緒の形体を残しています。
当時ここには利輔(のちの伊藤博文)が預けられていたため、晋作とは遊び友達だったと言われます。
二人が遊んだとされる木馬も残されています。
萩市観光協会公式サイトより引用
また、敷地内の拝殿には大きな天狗の面が掲げられています。
とても大きく迫力があるため、晋作は幼いころこの面の前に連れてこられ、度胸づけの躾に使われたそうです。
明倫館
(山口県萩市江向)
晋作が通っていた藩校。
当時、水戸藩の弘道館・岡山藩の閑谷黌と並び、日本の三大学府と称されていました。
現在は萩市立明倫小学校となっています。
吉田松陰もこの明倫館で教鞭をとっていて、この時に桂小五郎と出会ったと言われています。
功山寺
( 山口県下関市長府川端)
元治元年12月、長州藩俗論派打倒のためクーデターをおこした場所。
仏殿は鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されています。
「これから長州男児の肝っ玉をご覧にいれます!」と馬に跨り叫ぶ、猛々しい様を彷彿させる銅像があります。
桜山招魂場
( 山口県下関市上新地町)
晋作の発案で出来た日本初の招魂場です。
元々は奇兵隊士を弔うためでしたが、後に長州藩のために命を落とした多くの者たちを慰霊する場となりました。
松陰を中央に晋作、玄瑞と並び、無名の者も身分関係なく墓標が同じ高さで作られているのが特徴です。396柱の志士が祀られています。
高杉晋作の墓所 東行庵
(山口県下関市大字吉田)
なぜ吉田という地かというと、「死後は吉田へ」という晋作の遺言によるもので、奇兵隊の陣屋の近くだからではないかと言われています。
晋作の博物館も併設されています。
また、墓の近くには高杉晋作顕彰碑が建っています。
「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。周囲の者はただただ驚きぼう然とするばかりで敢えて正視する者すらいない。これこそ我らが東行高杉君ではないか。」
と書かれた碑文は、いつも晋作の傍にいて功山寺決起でも一緒だった伊藤博文です。
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