羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師と呼ばれた竹中半兵衛。

半兵衛は現在の兵庫県にある三木城を攻めている最中に36歳の若さで亡くなります。

 

そのため墓所は秀吉が本陣を置いていた平井山の山麓にあります。

ただ、三木市にある竹中半兵衛のお墓はこの1ヶ所だけではありません。

 

実は一般的に知られている墓所の反対側にも竹中半兵衛の墓があります。

この2ヶ所目のお墓はあまり知られておらず、人目を避けるような場所にあるので普通に観光をしているとたどり着くことは難しいです。

 

今回は実際に竹中半兵衛の墓所を訪れた経験をもとに、2つの墓所への行き方を詳しく解説します。

竹中半兵衛の墓所にお参りしようと思っている方はぜひ参考にしてください。

 

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三木市に2ヶ所ある竹中半兵衛の墓所の行き方

三木市にある竹中半兵衛の墓所は下記の2ヶ所です。

 

【兵庫県三木市平井】

 

【兵庫県三木市志染町安福田577 栄運寺】

 

2つの墓所のうち最初に紹介した平井の墓所が一般的に知られていて、地元の方々によってとても綺麗に整備されています。

一方、栄運寺にある墓所は本当に山の中にポツンとある感じ。

平井の墓所と比べると、お参りするのは少し大変です。

 

墓所間の移動にかかる時間は10分〜15分くらい。

公共交通機関での移動は難しい場所なので車での移動が必須です。

 

平井の竹中半兵衛墓所

平井山の半兵衛の墓所は三木城跡から三木三田線(38号線)を東に進み、【宿原西】の信号で左折。

513号線を北上していくと着きます。

 

のどかな田園風景の中にハッキリと分かる看板が出ているので見落とすことはありません。

 

 

看板を右折してそのまま真っ直ぐ進むと、奥に白壁で囲まれた区画が見えてきます。

 

 

車を1台だけ駐車できるスペースはありますが、駐車場として整備されている訳ではありません。

なので、少し離れた場所にある平井公民館横の駐車場を利用させてもらうと便利です。

 

 

奥へと続く細道を進んでいくと白壁に囲まれた墓所が見えてきます。

 

 

そしてこれが墓所の全景。

 

 

最初に目に飛び込んでくる風景にインパクトがあるからなのかもしれませんが、何か不思議な感覚のする場所です。

 

 

中央にある墓石には「竹中半兵衛重治墓」と刻まれています。

この墓石は後になって建てられたもので、手前にある花立や香炉台?は現代になってから設置されたもののようです。

 

 

少し横に回ってみるとこんな感じ。

土を盛って塚を築いた上に木を植えた、戦国時代のお墓にによく見られるタイプの埋葬方法です。

 

 

この時羽柴秀吉が攻めていた毛利輝元の祖父の元就や父親の隆元の墓所も、土を盛って、墓標の代わりに木を植える方法で墓が築かれています。

 

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半兵衛が亡くなったのは三木城攻めの最中なので、悠長に葬儀をしてお墓を建てるというような状況ではありません。

何よりも半兵衛自身がそんなことは望んではいなかったでしょう。

 

畳の上で死ぬよりも武士として戦場で死ぬことを希望して、病気のみでありながら三木城攻めに参加した竹中半兵衛。

表現の仕方がおかしいかもしれませんが、この土を盛って木を植えただけの簡素なお墓は戦国武将・竹中半兵衛らしいお墓だと思いました。

 

そして僕が驚いたのが、三木の住人からすると侵略者の立場にある秀吉の家臣お墓がとても綺麗に整備されていること。

普通に考えれば三木の人たちが竹中半兵衛の墓を守りながら後世に残していく理由はありません。

 

なぜ三木で竹中半兵衛がこんなにも大切にされているのか?

その理由を調べているとこんな記事を見つけました。

 

【参考にさせていただいた記事】

三木へ❀竹中半兵衛公のお墓参り

 

一言でいうと、半兵衛は戦をしながらも三木の領民に温情をもって接していたということ。

そのことに恩義を感じた地元の人々が半兵衛の亡き後もお墓を大切に守り続けてきたということのようです。

 

戦国時代のお墓は墓石に名前が記されていないことがほとんどです。

そのため、地元の人によって語り継がれたり、子孫が整備するなどしないと荒廃して所在が不明になってしまいます。

 

それなのに秀吉の一家臣のお墓がここまで大切に守られているのは半兵衛の人徳によるものなんですね。

 

栄運寺の竹中半兵衛の墓所

2つめの竹中半兵衛の墓所は、平井山の反対側にある栄運寺にあります。

 

 

この墓所はとにかく場所が分かりにくく、ヤブ蚊も多いのでお参りするのがとにかく大変です。

 

充分に下調べしていったにも関わらず僕も道を間違えましたし、蜘蛛の巣やヤブ蚊との格闘で四苦八苦しました。

時期によってはマムシなども出ると思いますので、できれば冬に訪れるのがおすすめです。

 

夏〜秋にかけて訪れる場合は長袖長ズボンで虫除けスプレーは必須。

蜘蛛の巣よけの棒などを持って進んでいきましょう 。

 

栄運寺に入るとすぐに墓所が見えてくるのですが、半兵衛の墓所はそこではなく、少し山を登った場所に隠れるように建っています。

墓所への入り口は栄運寺にはいる少し手前で、下記の写真の右側くらいにあります。

 

 

入り口にはボランティアの方が看板を設置してくれているので、その看板を目印に山道を登っていきましょう。

 

 

しばらく進むとうっすらと道が二手に分かれています。

左に進む道がメイン通りで右に進む道が側道のように感じるのですが、正解は右の道。

 

 

下記の写真のように小さな看板があるのですが、おそらく気づかないと思うので、道が二手に分かれたら右に進むと覚えておいてください。

 

 

右に曲がって1分くらい歩くとすぐに墓所が見えてきます。

 

 

僕はそのまま左のメインの道を進んだのですが、こちらの道を進むと半兵衛の墓所とは違う場所に着きます。

下記の写真のように「御神燈」という石碑がある場所に着いたらそれは間違いなので引き返してください。

 

 

こちらのお墓は「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」と呼ばれるタイプのもの。

ただ、阪神大震災の時に崩れてしまったようで、上部が落下したままになっています。

 

 

本来ならこの傘のような部分がかぶさって、さらにその上に塔のように長細い飾りがつきます。

 

 

平井の墓所と違って少し残念な状況になっています。

そして向かいにあるのが竹中半兵衛の愛馬のものと伝わるお墓。

 

 

こちらの墓石には「竹中」と彫ってあるそうなのですが、風化が進んでいるのとあまりの蚊の多さにじっくり見ることができませんでした。

宝篋印塔には半兵衛の戒名が彫られていて、2つのお墓は向かい合うように建てられています。

 

 

なぜ2カ所にお墓があるの?本物はどっち?

竹中半兵衛の墓所が2ヶ所にある理由はハッキリとは分かっていないようです。

ただ、2つのお墓を訪れた印象としては半兵衛は最初に紹介した平井の墓所に埋葬され、栄運寺の墓所は後になって建てられた供養塔のような印象を受けました。

 

徳川時代になって豊臣秀吉にゆかりのある武将の墓の破壊を恐れた地元の領民が墓所を移転させたという説もあるそなので、そう考えると人目を忍ぶような場所にあるのも納得できます。

 

後の世になって半兵衛の息子である竹中重門が岐阜県の垂井に半兵衛の墓を改葬しているので、半兵衛は垂井の「禅幢寺(ぜんどうじ)」に眠っているのかもしれません。

 

そう考えると、個人的には

 

平井の墓所→最初の埋葬地

栄運寺の墓所→供養塔(もしくは2ヶ所目の埋葬地)

禅幢寺→現在の墓所

 

ということになるのではないかと思っています。

本当のとことは分かりませんが、こうして色々と妄想を膨らませることができるのが歴史の面白さですね。

 



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