戦国時代、領土拡大のために戦っていたのは大名ばかりではありません。

一向一揆をはじめ、比叡山延暦寺や大坂本願寺といった、寺社勢力も武装して戦っていました。

 

その寺社勢力の中の本願寺に従って信長に敵対したのが、紀州の雑賀衆です。

雑賀衆というのは当時の日本では最新アイテムだった鉄砲を駆使して闘った用兵集団。

その雑賀衆の棟梁は代々『鈴木孫一』という名前を名乗っていたとされています。

 

その優れた技術は信長も自身が負傷するほど苦戦を強いられました。

では、雑賀衆はどのようにして戦国時代を生きてきたのでしょうか?

そして、諸説ある鈴木孫一の正体とは誰なのでしょうか?

 

今回は鈴木孫一と雑賀衆について見ていきましょう。

 

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雑賀衆ってどんな集団?

雑賀衆がいたのは紀州、現在の和歌山県和歌山市の集落。

雑賀というのは本来雑賀荘という集落の名前であり、そこの有力な氏族は主に雑賀党鈴木氏と土橋氏でした。

 

守護大名の畠山氏が戦国時代に入ってから雑賀衆を傭兵として使ったことから徐々に名が現れます。

紀ノ川という川の支配権を有していたことから雑賀衆は海運を得意としており、鉄砲が日本に伝来した後も積極的に交易を推し進めて鉄砲を買い付け、鉄砲集団として成長していきます。

 

雑賀衆が鉄砲に習熟できた理由は貿易に優れた環境です。

この地域には雑賀衆の他に根来衆という鉄砲集団がいました。

根来衆は特に根来寺という真言宗の門徒がその母体ですが、彼らは海上貿易によって利益を上げる一方で僧兵として武装していました。

 

根来衆に津田監物(算長)という僧兵がいましたが、彼は鉄砲伝来の種子島家当主・種子島時堯に自ら会いに行き一丁の鉄砲を購入。

紀州に帰って芝辻清右江門という刀鍛冶に鉄砲の複製をさせ、紀州は鉄砲量産の一大産地になりました。

 

根来衆と雑賀衆は宗派の違いから敵対関係にあったとされていますが、雑賀衆もこの鉄砲量産技術を取り入れて鉄砲集団に成長したのでしょう。

弾薬の原料となる硝石は当時日本では手に入らなかったといわれていますが、貿易でそれを入手し圧倒的優位に立っていました。

 

雑賀衆は本来紀伊国に住む土豪に過ぎず、傭兵として特定の大名に肩入れするようなことはしていなかったようです。

いえ、正確には本願寺、つまり一向一揆でお馴染みの一向宗の門徒が多かったので本願寺は彼らのボスでありました。

 

一方の根来衆は出家でお馴染みの高野山で有名な真言宗の門徒です。

一向宗と真言宗は敵でありました。その情勢が最も顕著に表れるのが、織田信長が現れてからです。

 

事の発端は1570年、信長の出現で権力を失っていた三好三人衆が本願寺と結んで信長に対抗しようとします。

本願寺は当然門徒である雑賀衆を兵として雇います。

 

しかしこの時、信長も反一向宗の根来衆を雇い、そして雑賀衆の一部を雇っています。

雑賀衆・根来衆のような土豪の集まりは実は同じ集団の中でも利害関係があったりして必ずしも一致団結していたわけではないのです。

 

つまり、雑賀衆は同じ釜の飯を食った仲間に向けて引き金を引くこととなったのです。

ご存知の通り信長は畿内の戦争を次々と征していきますが、石山合戦では雑賀衆は鉄砲の多段撃ちと水軍を操り、織田軍を完膚なきまでに叩きのめしてしまいます。

 

これに怒った信長は、本願寺を直接相手にする前に結局は基盤が小さい雑賀衆を倒すために雑賀荘に10万という信じられない数の兵を派遣します。

かねてから敵対関係にあった根来衆が織田につき、織田が派遣したのは当主・信忠を筆頭に羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益・神戸信孝・北畠信雄ら一級品の指揮官でした。

さらには一部の雑賀衆がやはり織田に寝返っています。

 

こうして圧倒的不利を悟った本願寺側雑賀衆は織田に誓紙を書いて信長に従うことを決めます。

しかし実際に損害が多きかったのはむしろ織田軍だと言われ、雑賀衆はすぐに活動を再開します。

 

実はこの時に織田寛容派の鈴木氏と徹底抗戦派の土橋氏で抗争が起こっていたのです。

1582年、鈴木氏が土橋氏を駆逐しますが、間もなく本能寺の変が起こり状況が変わってしまいます。

今度は鈴木氏が追い出されてしまい土橋氏が権力を盛り返し雑賀衆としての自治を取り戻そうとします。

 

しかし秀吉はすぐにこの危険性に気づき雑賀衆を滅ぼしてしまいます。こうして雑賀衆のような土豪集団は二度と現れなくなり、天下統一へと歩みを進めていくのです。

 

 

鈴木孫一について

鈴木孫一といえば、言わずと知れた雑賀衆の棟梁ですが、代々名乗っていたようで具体的に誰かというのは不確定です。

また、鈴木孫一というよりは『雑賀孫市』という方が馴染みが深いかもしれません。

 

 

しかし確かな史料ではやはり鈴木孫一が最も正確です。

この鈴木孫一であろうと確かに考えられるのは、石山合戦時代の鈴木重秀です。

 

実は雑賀衆の棟梁というのは決して雑賀衆の総領というわけではなく、雑賀党鈴木氏の族長くらいの小さな地位でした。

そのため権力はそれほど大きいわけではありません。こうしたローカルさが土豪勢力らしいです。

 

さて、重秀は石山合戦期に既に名の知れた存在になっていました。

彼は本願寺の方針で反信長勢力の応援として活躍しており、信長とも直接対決をしたことがあります。

しかし石山合戦を経て雑賀衆は講和派と交戦派に割れてしまいます。

 

重秀は本願寺そのものが頼りない勢力となってしまったことを見て講和を勧めます。

しかしこれに納得しなかったのが、根来衆とも連絡を取っており鈴木氏以上の勢力を持っていたとされる土橋守重です。

本願寺が信長に降伏すると、今度は雑賀衆同士で内乱が起こります。

1582年、重秀は守重を討ち取り雑賀衆を講和という流れに持ち込みました。

 

しかし、それから間もなくして起こったのが本能寺の変。

重秀は信長という最強の後ろ盾を無くし、土橋派に圧迫されて雑賀を追い出されてしまいます。

 

その後、秀吉は土橋派の独立姿勢を天下統一の障害だと考え、家康に協力していたこともあって討伐を決意します。

重秀も討伐軍に参加していました。

 

結果、1585年に雑賀衆は解散し、滅亡します。

その後の雑賀衆は各々が大名に仕えたりして鉄砲や海運の管理に携わったとされています。

 

ところで、朝鮮出兵や関ケ原にも鈴木孫一なる人物が現れていますが、重秀はこの時期既に高齢で戦には出れないはず。

そこで、次の代となる重朝が最有力と言われています。

 

この孫一は関ケ原の前哨戦である伏見城の戦いで鳥居元忠を一騎打ちで討ち取ったことで有名です。

重朝は確実な説では関ケ原で西軍であったことから浪人し、のちに伊達政宗に仕え、しばらくして水戸徳川家に仕えることとなります。

 

重朝の息子・重次の時代に雑賀孫市という通称を名乗るようになります。

この重次は水戸藩初代の頼房の子を養子にとり、後世名字を鈴木から先祖の地である雑賀に改めます。

こうして、現代に知られる雑賀孫市という人物像が出来上がるのです。

 

ちなみに、現在も雑賀さんは日本のあちこちで暮らしていますが、もちろん和歌山県にも雑賀さんはいます。孫一さんはさすがに聞いたことがありません・・・笑。

 

 

まとめ

雑賀衆の存在はまさに天下統一前の自治性の強い集落の雰囲気を思い起こさせます。

江戸時代以降はこうした村はなくなり、一切の貿易は幕府の管理下に置かれることとなります。

闇市が見つかったら即捕まりますから、雑賀衆のような存在はいなくて当然ですね。

 

と同時に、天下というスケールメリットの強さを思い知らされます。

織田信長と言っても個々の戦闘では必ずしも最強ではありません。

 

現に信長は武田信玄や上杉謙信といった自分よりも格段に戦が上手いはずの人とは積極的に戦いたがりません。

雑賀衆も本来なら手を出したくない存在だったのかもしれません。

いざ味方になりますといったらあっさりと保護してるくらいですから。

しかしそれでも雑賀衆がそれ以上の発展を遂げることは無理だったのでしょう。

 

やはりただの土豪では朝廷や幕府を納得させることはできないので、雑賀衆が天下を狙うといったようなことははなからなく、また考えてもいなかったでしょう。

彼らはそういう視点で天下を見ていたわけではなく、日々の生活の足しのために傭兵という稼ぎを得ていたのです。

 

そんな形態も天下統一によって全くなくなります。雑賀衆はどうあっても消える存在だったのかもしれません。

 



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