関東を支配した北条氏の初代当主が北条早雲。
北条早雲は低い身分から戦国大名に成り上がった人物として有名です。
では、早雲はどんな人物で何をして大名になったのでしょうか?
今回は北条早雲の知られざる秘密に迫ってみたいと思います。
北条早雲の生涯を分りやすく解説
北条早雲の父は室町幕府の名士であり高越山城主(備中荏原郷、今の岡山県)だった伊勢盛定。
次男に生まれた伊勢盛時(のちの北条早雲)は早世した長男に変わって後継ぎの立場にあったようです。
一般的に早雲は低い身分から成り上がったと認識されていますが、実はそんなことはありません。
むしろ、生まれとしてはボンボンです。
一介の浪人から成り上がったというストーリーは江戸時代になってから作られたものと考えられています。
15歳のときには、京都で働く父に代わって領地の管理をしていましたが、やがて仕えていた今川家の後継ぎ争いに巻き込まれることに。
これがきっかけになって今川家との絆を強め、伊豆に城を構えるようになります。
そして後継ぎ争いに乗じて、徐々に領土を拡大することに成功します。
さらに早雲は相模国への進出も図っていました。
有名な小田原城は北条早雲が謀略によって当時の当主大森氏から奪い取ったとされていましたが、実は近年の研究により誤りであったことが分かっています。
実際にはこの相模国を支配していた上杉氏から、その働きへのご褒美として小田原城が与えられたのでは?という考えもありますが定かではありません。
その後、破竹の勢いで領地を拡大して1代で相模国一帯を手に入れます。
そして、2代目北条氏綱にバトンタッチをしています。
「北条早雲」の本当の名前は?
「北条早雲」という名前は、彼が生きているときには使われていませんでした。
「北条」の姓を名乗るようになったのは2代目の氏綱からなのです。
生きているときは、伊勢盛時(伊勢新九郎盛時)や伊勢宗瑞(出家してから)と呼ばれていました。
ただ、彼の幼名だった「新九郎」は代々北条家の長男の幼名に引き継がれます。
では、なぜ、2代目氏綱は「伊勢」から「北条」に改姓したのでしょうか?
一説には武蔵まで攻め入り関東の覇者として北条氏の名前を継ぐという意味で「北条」を名乗った可能性が考えられています。
また、東では知名度が低かった伊勢氏の名を改姓して地元での立ち位置をよくする狙いもあったといわれています。
早雲という名前は、晩年に出家した北条宗瑞の庵号の「早雲」からとったもの。
2代目北条氏綱は早雲の死後2年経ってから、神奈川県箱根町に早雲寺を建てました。
非常に優れた政治家だった北条早雲
とにかく強くて戦うことしか能がない武将といったイメージの強い北条早雲ですが、実はその政治力にも定評があります。
例えば、駿河東部の城を手に入れたとき、当時の税率が「五公五民」または「六公四民」が当たり前だった中で、「四公六民」にまで引き下げる政策を実施。
(領主に4割のお米を収めて、6割は領民の取り分という意味)
応仁の乱で乱れた社会で、大勢の人が路頭に迷っている様子を間近で見てきた北条早雲だったからこそ、民衆の立場に立った政策が実行できたのではないかと思われます。
また、伊豆の地を手に入れたときも、領民を思いやる政治を忘れず、病が流行ったときには無料で薬を提供したりもしたのでした。
早雲は、家訓の中にこんな言葉を残しています。
「上下万民に対し、一言半句であっても嘘を言ってはならない」。
当時の支配者階級が、百姓を人と思わず税を搾取されるためだけに存在しているものとしか思っていなかったのが常識だった時代に、とても稀有な心優しい存在だったといえますね。
幕末には、勝海舟をして「北条早雲は非凡な政治家だ」といわしめたともいわれています。
50歳を過ぎてから頭角を現した北条早雲
北条早雲が伊豆の興国時を与えら得たのは55歳のとき。
その後、伊豆一円を支配したのは60歳のときでした。
あの小田原城を攻め落としたのは64歳。
小田原城は北条早雲がこれまでに数々の経験を積んできたからこその知恵により、戦わずして手に入れたお城でした。
伊豆の山での鹿狩りの鹿が逃げて箱根方面に入ってしまったので回収したいという口実を作った早雲。
猟師に変装した自身の屈強な武士を送り込み、さらに牛1000頭の角に松明をつけて走らせて大群がきたと見せかけるという奇襲作戦を決行したのです。
まんまと騙された城主の大森氏はそそくさと逃げ出し、小田原城は北条早雲のものになったのです。
こうした奇策はこれまでにはあまりなかったこと。
リスクを最小限に抑えて戦うという前例を作ったのは、他ならぬ頭脳明晰な北条早雲だったのです。
北条早雲が亡くなったのは、88歳とも伝えられています。
当時の平均寿命が50歳だったことを考えると、長寿がゆえに大器晩成の恩恵を受けることができたといえます。