皇居の前に楠木正成の銅像があるのはなぜ?今も愛される正成の人気の秘密とは?

鎌倉末期~南北朝時代初期に活躍した武将・楠木正成。

現在、皇居のある江戸城跡には楠木正成の立派な銅像が建てられています。

 

楠木正成は南北朝時代にはほとんどの東国武士が足利尊氏に加担していく中で、後醍醐天皇に最後まで忠誠を尽くした人物。

南朝に加担した正成は時代の流れの中では逆賊という見方もされることもありますが、現在では「忠臣」として知られています。

 

今回は、天皇のために生きた武将・楠木正成について見てみましょう。

 

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楠木正成はどんな人物?

 

 

名前 楠木正成(くすのきまさしげ)

出身地 河内国?(大阪府東部に相当)

生没年 ?~1336年

主君 後醍醐天皇

 

特技 合戦、奇策

性格 誠実、利に敏感、庶民派

尊敬する人物 足利尊氏

苦手な人物 新田義貞

 

楠木正成は、同時代に活躍した足利尊氏や新田義貞と違い出自がはっきりしません。

一般的には河内国で代々育った非御家人のせいぜい土豪レベルの生まれだとされています。

 

また、駿河国の得宗被官の御家人であったとする説もあり、この地域の武士団を率いていたとされています。

いずれにせよ、主君となる後醍醐天皇から見ると取るに足らない低い身分であったと考えることができます。

 

正成は鎌倉幕府得宗の配下として反逆者の討伐にあたるなど、合戦においては、当時から相当の心得があったものと思われます。

河内国は商業の国としても有名でしたが、当時幕府はこの商業や輸送の利権を巡って河内国の土豪と争っていたともいわれ、鎌倉幕府や将軍はおろか執権すらも形骸化してしまい、それに対する不満があちこちで溜まっている状態でした。

 

また天皇家も後継問題を幕府に干渉されていましたが、これに対し自分の血統をないがしろにされていると感じていたのが後醍醐天皇でした。

後醍醐天皇は幕府に対して挙兵を画策していましたが、正成はこの時に後醍醐天皇の傘下に入ったものと思われます。

 

ここからが正成の本領発揮です。

 

どんな功績がある?

後醍醐天皇は、正成が自分に加勢してくれるという知らせを聞いてとても喜びました。

正成も後醍醐天皇から招聘の宣旨が下ったときは「この上ない光栄だ」と言って大喜びし、一族郎党を率いてすぐさま後醍醐天皇が挙兵した笠置山に駆け付けます。

 

後醍醐天皇はすぐに捕らえられてしまいましたが、正成は赤坂城にて僅か500の兵で籠城し幕府軍を遮ります。

幕府軍は正成を少勢だとバカにして統率を乱して勝手に山を駆け上がりますが、正成は城柵を二重にしていたので外側を外して落石、熱湯、さらには糞尿という奇襲作戦にて幕府軍を翻弄します。

 

幕府軍の目測ではせいぜい1日もあれば落城は容易だとみていたのに対し、実際は2か月かかっても落城できませんでした。

しかし正成も多勢に無勢で城に火を放ち、自分が死んだように見せかけてさっさと退却してしまいます。

ちなみに、この幕府軍には足利尊氏もいました。

 

その後正成は半年後に幕府に奪われた赤坂城を無血で開城し奪還、続いて京都でも幕府方の拠点を兵糧攻めで心理的に追い詰めて次々に奪取。

天王寺を奪う際には農民の協力を仰いで包囲しているように見せかけて幕府軍を心理的に追い詰めて退却させ、またもほぼ無傷で勝利。

 

正成は当時のプライドの塊だった鎌倉武士が卑怯だと蔑むはずの「奇策」にてどんどん幕府を追い詰めます。

さすが悪党(徒党を組んで反支配的な行動をとる武士)だったという説があるだけに、奇襲や計略は朝飯前だったのでしょう。

 

幕府も正成の勢力を脅威と感じており、「悪党楠兵衛尉」と警戒していました。

幕府は東国武士を結集して正成に攻撃を仕掛けることを決意。

 

正成は千早城にて籠城し再び幕府軍をくぎ付けにします。

この間に後醍醐天皇が隠岐から脱出し再度挙兵、京では幕府軍最大のカリスマ・足利尊氏が幕府から反逆し六波羅探題が陥落、関東では同じく幕府御家人の新田義貞が挙兵し鎌倉幕府をついに滅ぼしてしまうのです。

 

反逆者・悪党から晴れて功臣となった正成は、堂々と京に後醍醐天皇を迎えに行きます。しかし、この時既に正成の悲劇は始まっていました。

 

桜井の別れを分かりやすく解説

後醍醐天皇は幕府のやり方を否定し、再び天皇が強い力を持つ政治を目指そうとして建武の新政をはじめます。

正成も河内・和泉の守護等多くの官職に任じられて名誉を受けました。

 

しかし建武の新政は既存の武士の存在をまるっきり考慮せずに勝手に新しい国司を置いたりしたために政治は混乱。

そうなると武士達は足利尊氏に従うようになり、尊氏は後醍醐天皇を無視して独断で武士に恩賞を与えます。

 

この行為に後醍醐天皇は当然激怒し、正成らが率いる討伐軍を派遣します。

戦は正成の勝利に終わり、尊氏は最終的に九州まで逃れることになります。

 

しかしこの時も多くの武士が尊氏に従って逃亡。

正成は天皇に「武士の反乱の全ての原因は我々の政治の失敗にあります。尊氏は侮れない存在ですからぜひ尊氏らと和睦してください。」と進言します。

 

しかし、公家達は一度の勝利にすっかり気をよくして正成を鼻で笑うばかり。

その上正成は謹慎を命じられてしまいます。

 

代わって討伐軍の大将になったのが新田義貞。

 

 

義貞は根っからの短気で強情な性格だったため、正成とは性格が合わず、正成は義貞よりも教養ある行いをする尊氏の器を認めていたとされています。

 

 

義貞軍は強情に尊氏方の赤松円心と正面衝突を繰り返し、軍勢を一気に減らしてしまいます。

そこで天皇らは慌てて正成を呼び出し救援に向かわせましたが、この時既に天皇の耳は彼ら武士達にはなく公家らの方に傾けられていました。

 

この正成最期の出立に関して有名なエピソードが、足利尊氏の物語である『太平記』の中の故事である桜井の別れです。

義貞軍を目指して摂津国桜井駅(宿場)に到着した正成は、同じく従軍していた当時11歳とされる長男・正行を呼び出して正行を故郷に返すことを決めます。

 

正行はそれでも自分は父と共に武士として残りたいと主張しますが、父は「お前を残すのはこの父が死んだ後のことを考えてのことだ。たとえこの父が亡くなってもお前は我らの帝に忠義を尽くし、身を賭して必ずやいつの日か朝敵を倒せ。」と息子を諭して菊の御紋の剣を渡して最後の別れをします。

 

現代ではさほど馴染みのないエピソードかもしれませんが、戦前までは正成の忠義のエピソードとして教科書に載るほどのもので、我々のひいおじいちゃん世代は正成に涙していたのです。

しかし、残念ながらこの話は古くから創作説があるほど実在性が疑われている話。

お盆や正月にこの話の考証をおじいちゃんやおばあちゃんにするのはやめておきましょう(汗)

 

正成は義貞と兵庫にて無事合流し、2人は最期の酒宴を開きます。

義貞は強引に戦い続け多くの犠牲を出したことを後悔していましたが、それでも尊氏に膝を屈することを認めません。

 

この時に正成は義貞に対しどんな感情を抱いていたのでしょうか?

翌朝、湊川で尊氏軍と対峙した正成は多勢に無勢で義貞軍とも分断されてしまいます。

 

そして全身に傷を負った正成は73騎の従者と共に民家に逃げ、最後は弟と刺し違えて自害しました。

火を放たれたという理由から当時の人達も正成は生きていると信じており、当時正成の首級だとするものがいくつも尊氏に献上されました。尊氏は正成の家族を気遣い正成の首級を河内に送り返しています。

 

以降、楠木家は正成の遺言を守ったのか代々南朝に尽くし、南朝滅亡後も後南朝に仕えて室町幕府に抵抗を続けています。そのため、室町時代では正成は逆臣とみられていましたが、信長や秀吉に仕えた子孫とされる楠木正虎が名誉回復を果たします。

 

 

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皇居の前に銅像がある理由

現在、東京の千代田区・皇居外苑には1904年に高村光雲と後藤貞行が彫った楠木正成像があります。

実は江戸時代、超尊王派で知られていた水戸光圀が記させた『大日本史』の中で、天皇に伝わる三種の神器の所在を理由に南朝を正統とする見方があることにはありました。

 

しかしこれが表立って激しくなるのは戦前、尊王運動の中で天皇を担ぎ忠義を尽くした楠木正成は正義、逆に天皇に刃を向けた足利尊氏は悪、という価値観が生まれたことがあります。

この運動は決して誰かが勝手に騒いだだけというような小さなものではなく、皇国史観を掲げ挙国一致を目指した大日本帝国の国策として採用されていました。

 

明治維新を成し遂げた西郷隆盛らは「南朝方の天皇の子孫が実は手元にある」という大義名分で挙兵したともいわれており、天皇の正統性はいつになっても重要なものだったのですね。

 

 

さて、こうした歴史観から楠木正成は先述の「桜井の別れ」のエピソードや銅像などでヒーローとして扱われ、国民を天皇の大義名分のもとに統制しようとする教育があったのです。

最も、現在はこうした価値観は過去のものとして考えられ、尊氏も正成も同時代に生きた人物として正当に評価されています。

 

鎌倉時代や江戸時代と比べて、室町時代の成立が今一つ物語として人気を得ないのもこうした複雑な事情から作り手も手をこまねいていたからだといえるのかもしれません。

 

まとめ

 

正成が最期まで南朝についていたのは、やはり卑賤の身分だった自分を取り立ててくれた南朝への忠義からです。

彼自身は建武の新政や公家達の認識不足を十分にわかっていましたが、おそらく武士というものに強い憧れを抱いておりそれを実現してくれた南朝はたとえ間違っていても主君でした。

 

忠義に死すべしという発想は当時の北朝方の武士も感動させ、そのために正成は戦国、江戸、明治、大正、昭和、平成と長きにわたって生き続ける「忠臣」となったのです。

 

判官びいきとは少し違うでしょうが、悲劇のヒーローである正成は日本人が愛する「死を以て答える」という散り際の美学に符合した愛される存在と言えるでしょう。

 

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