室町幕府の8代将軍である足利義政。

義政が銀閣寺を建てたことは有名ですが、それ以外に何をした人でどんな功績を残したのかはイマイチ知られていません。

 

果たして足利義政はどんな人物だったのか?

今回は足利義政の功績や銀閣寺を建てた理由について迫ってみたいと思います。

 

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足利義政はどんな人物だったの?

歴史上、どれだけの人間が本当に高い志を持って権力の座に就こうと考えていたでしょうか?

そしてそれを本当に叶えることができたのはどのくらいの人数なのでしょうか?

 

天下を治めるに相応しい力を持ちながら天に味方されなかった武将は数多くいます。

また、初代が偉大な人物でも、2代目以降になると必ずしも将軍の器にふさわしくない人物が政治を行っていたというケースもあります。

 

室町幕府では初代・尊氏からもう政権運営にやや消極的だったためか、歴代将軍(義詮、義満は除く)を通じて望まぬ在位や問題が続発し、そうしたことが原因で武士の内乱が起こり、戦国時代へと突入していきます。

 

では、そのきっかけを作ったのは誰なのか?

戦国時代に突入したのは応仁の乱がきっかけとされますが、その最重要キーパーソンとされるのが8代将軍足利義政です。

 

義政は世間の混乱を無視して趣味に没頭した将軍として評判がよくありません。

しかしそれは彼1人の責任にするにはあまりに短絡的だと言わざるを得ない世情がありました。

 

そこで、今回は望まずして将軍になった義政と武家の棟梁であるはずの室町幕府について詳しくみていきましょう。

 

 

【名前】 足利義政(あしかがよしまさ)

【生没年】 1437年~1490年

【肩書】 室町幕府8代将軍

【性格】 厭世的、時間に厳しい、癒し中毒、内なる情熱を持つ

【趣味】 能、茶道、園芸、連歌 その他諸々

 

室町幕府は当初から中央政権としての力に問題のある機構でした。

そのため鎌倉府をはじめ多くの地域で守護の継嗣問題などで揉め、幕府が介入しては事態が余計複雑になるということがず~っと続きました。

 

義政の父である義教はこれではいかんと悪御所とよばれるほど苛烈な恐怖政治を敷きましたが、その結果赤松満祐によって殺されてしまいます(嘉吉の乱)。

この時、当時の管領が慌てて次の将軍にしたのが当時9歳でしかなかった義教の長男・義勝です。

しかしこの義勝も8か月後に突如病死、次に将軍に推されたのが義勝の三弟・義政でした。

 

義政とて子供ながら先人達の失敗を学んでいたはず、彼の理想はかつての義満、義教のような専制政治でした。

特に義政はず~っと問題ばかり起こしている鎌倉府に対しては兄の政知を新たな鎌倉公方として送り込んで対処しようとするなど積極的な姿勢が見られます(これが関東戦国時代の発端にもなりますが)。

 

中断されていた勘合貿易を再開させたのも義政の時代からです。

しかし義政のそばには三魔と呼ばれた今参局、烏丸資任、有馬元家(持家説もあるが元家が有力)の3人がおり、御家人以上の発言力を持ってあれこれ支持していました。

 

守護の継嗣問題で義政は何度か三魔の存在を強く思い知り、さらには管領の細川勝元、有力守護の山名宗全らの存在によって次第にこの日本での将軍の立場の弱さに気づいていきます。

 

義政は20歳くらいの頃から既に趣味に没頭する現実逃避の生活を始めています。ひどいのは寛正の大飢饉の際に義政は天皇の命令まで無視して庭園造営や能といった娯楽に興じていたことから、天皇に叱られてしまいました。

 

その後は自身が隠居するために後継者問題を引き起こし、後継者の地位を巡って嫡男・義尚を擁する正室・日野富子と実弟・義視がそれぞれ宿敵である山名宗全・細川勝元に協力をお願いしたことで京で内乱が勃発、応仁の乱が始まります。

 

義政は当初長きに渡って我関せずな態度でしたが、途中から富子の進言を受け入れて義尚を正式に後継者に決定し隠居。

以後は政治に関わらないはずでしたが、義尚成人後も依然として権力を握り続け、幕府内の政治にさらなる混乱を引き起こしました。

 

義尚に先立たれた後の最晩年は美濃に亡命していた義視と和睦し、その子義稙を養子にして次期将軍にすることを決定します。

それから間もなく、かねてから体調を崩していた義政は亡くなりました。

室町幕府はここから権力が将軍から管領や大名に権力が奪われていき、日本は戦国時代を迎えるのです。

 

応仁の乱のきっかけを作ったって本当?

若年にしてさっさと隠居したいと願っていた義政ですが、そのためには後継者を決めなくてはいけません。

義政は18歳の時に母の姪孫である日野富子と結婚し、血生臭い紆余曲折の末に富子は義政の子を懐妊します。

これが義尚です。

 

ところが、これより前に義政は出家していた実弟・義視を還俗させて自分の養子、つまり後継者にしていたのです。

こうなると当然実子である義尚が将軍になる可能性の方がずっと高いので義視の立場は宙ぶらりんになります。

しかしそこでも義政は依然としてはっきりと義視か義尚かということを明確には示しませんでした。

 

普通の将軍なら、そもそも20代という現役バリバリで後継者のことを焦ることもないのかもしれませんが、義政はこれを実現するためにまず義視を数年間だけ仮の将軍(または管領より上位の執政のような立場)にし、義尚が成長したら彼を大御所にし、義尚を正式な将軍にしようと考えていたのかもしれません。

義政個人はそれでもよかったのかもしれませんが、周囲はそれでは納得しません。

 

普通に考えれば義尚が次期将軍になる可能性が高いですが、義尚は所詮幼少。

そうなると頭をよぎるのは幼い将軍を擁して権力を握ることです。

 

ところが、万一既に成人した義視が将軍となったら義視は確実に自分好みの人事をし、事によっては地位を失う守護も現れるでしょう。

義視からしても自分は危険な存在ゆえに殺される危険性すらあります。

 

折しも当時、義視謀反の噂をでっちあげる不逞の輩がおりそれが守護・畠山氏や斯波氏の家督争いと複雑に絡み合い、最終的に細川勝元・山名宗全の2大勢力の争いに発展していくのです。

こうして足利将軍家の矛盾と細川・山名の争いが極地に達した結果、京にて応仁の乱が発生します。

 

応仁の乱を通じて、義政と富子の夫婦は一貫して管領である勝元を支持していましたが、義視の立ち位置は一定せず当初細川に与しながら途中で山名に鞍替えし、山名陣営で将軍として扱われたりもしました。

 

しかし将軍家は当初こそ戦の中心人物でしたが、後になるほどあくまで勝元・宗全らの大義名分的バックボーンに過ぎなくなります。

こんな状況で義政は何をしていたのかというと、花の御所に逃げてきた後花園上皇(後に法皇)や後土御門天皇らと共に日夜宴会に芸術活動のオンパレードで自分から積極的に何かしようという気は感じられません。

しかし彼は次第に勝元支持と義尚継承を認める動きを見せ、朝廷から宗全追討の宣旨を受けます。

こうして世論を味方につけた将軍家は義尚を後継者にすることを決め、富子の願いは晴れて叶えられ、義政も義尚が将軍になったことでようやく隠居できました。

 

しかし応仁の乱はもはや将軍家の後継者争いなどもうどうでもよく、勝元と宗全が亡くなった後も諸勢力が勝手に戦乱を続ける状態になっていました。

特に宗全についた主勢力である大内政弘らを筆頭に「戦って勝たない限り立場がなくなる」というように追い込まれた者も数多くいたでしょう。

 

彼らの名誉を守るために奔走したのが富子です。

富子のおかげで多くの大名が領地をを失わずに戦を終わらせることができました。

 

歴史上の多くの事件は、誰かが何かをしたことがきっかけです。

しかし応仁の乱は義政が期を逃して何もしなかったために続いてしまった事件です。

義政がきっかけというのは決して100%正解ではありませんが、義政は責任を取らなかった人物としてその責任を見逃すことはできません。

 

 

東山文化って何?銀閣寺を建てた理由は?

政治ではマイナスがついてしまう義政ですが、本来仕事に割くべき時間を芸術に費やした結果日本史上とても高名な文化人という実績を残してしまいました。

その実績は彼が隠居の地に選んだのが京の東山、そこに山荘を建てたことから東山文化と呼ばれます。

 

戦国から江戸にかけて最もイメージしやすいわびさびの文化は他ならないこの義政から生まれたものです。

彼はお金はたくさん持っていましたが決して足利義満や豊臣秀吉みたいに金箔塗りの豪華絢爛なものが好きだったわけではありません。

 

彼が好んだのは、色使いが地味で素朴な印象を与えるものです。

例えば雪舟の水墨画、水を使わずに石で流水を表現した枯山水、それに茶道、書院造といった戦国~江戸時代までにも見られるような「日本」のイメージを作り上げるものばかりです。

 

通称銀閣寺こと慈照寺観音殿は近年の調査では初めから銀箔を貼る予定はなかったとされています。

義政は自分の隠居屋敷を造るために庶民に臨時税を課しましたが、これが戦時の最中に行われた命令だというのは覚えておきましょう。

 

さて、義満の北山文化は豪華絢爛、貴族を思わせる幽雅なものを感じさせましたが、東山文化は剛毅朴訥、質実剛健といった色ではなく素材の良さにこだわったような特徴を感じます。

義政はおそらくこうした落ち着いた空間で周囲の喧騒から逃れたかったのでしょう。

 

もし祖先の尊氏が生きていたら義政の屋敷に入り浸っていたかもしれません。

どこか現世に魅力を感じてない辺りが似ていますから。

権力を持てなかった将軍と室町幕府の限界

室町幕府は成立当時から実力で領地を切り取りたい武士団と、条例と権威で配分を決めたいという将軍家の対立構造が強固な政権でした。

しかも将軍家は政権奪取の過程で管領等となる武士団達に多くを頼る合議制を取ったことから、あまり強く出れないという力関係を作ってしまったのです。

 

もしかしたら後醍醐天皇の建武新政の際に武士が軽視されたのを鑑みて武士への人気取りを行おうとして失敗したのかもしれませんね?

 

義政はそんな腰の低い将軍家から意向を取り戻そうとした6代将軍・義教の息子でした。

義政にそんな理想があっても理解はできます。

 

しかし周囲の期待と自分の理想が一致しないほど生きにくいことはありません。

義政は幼少期から周囲に「あれはいけません、これはいけません。あとは部下が勝手にするからおとなしくしていなさい」と言われ続けて生きたのですから、いくら義政が立派でもうまくいきません。

ひとえに幼少期の教育が足りないまま将軍になってしまったのが原因でしょう。

 

個人的には、義政が即位した時に室町幕府という組織の限界も近づいていたのではないかと思います。

 

応仁の乱の後もしばらくは将軍の権威は維持されていました。

そのため、討伐令を発令すれば依然として従う武士は少なくありませんでした。

 

しかし政治機構としてみれば、室町幕府の守護への介入方法や統治への権限は明らかにアウトです。

問題がない分には放置しておきながら、何か起こった瞬間に討伐→領地削減→(処分)ですから、自治権を認めらえたと思い込んでいた守護や国人からすれば「中央ふざけんな」という話になってもおかしくはないでしょう。

 

現にそうした理由での反乱や守護同士の争いが室町時代には絶えませんでした。

それでいて彼らは強権を振るう将軍を恐れたのですから、矛盾といえばそうなのですが当時は江戸時代と違って幕府を中心とする連合国家のような状態でしたから、当時の中国・明の言葉を借りると幕府が他より少し大きいだけの地方政権だらけだったのです。

 

そのため、領主が願うのは領土の拡大と権限の増大のみ。その上幕府は頼りない、これでは中央がどれだけ強く言ってもいつかは破綻します。

義政は思うにそうした矛盾だらけの名ばかり政権だった室町幕府に終わりの始まりを告げるべくして将軍となった人物だったのでしょう。

そのために日本に必要だったのが、戦国時代を通じて入ってくる欧米諸国の発想と価値観の変革なのです。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

色々と調べているうちに著者も考えが巡り巡って何だか歴史とは遠い所まで来てしまったような気もしますが・・・。

 

義政が最初に目指した権威ある世は彼の時代から1世紀以上経ってようやく成果が出たような気もします。

後の時代に信長・秀吉らが外国との交易手段や大名とのやり取りで用いた茶道等の文化は義政が生み出したものです。

 

特に信長は文化面では義政を非常に尊敬していたともいわれていますし、要するに今でいうと「ペンは剣よりも強し」というやつでしょうか。

その場しのぎの武力よりも末永く残る作品や受け継がれる言葉の方が人の助けになるというのなら、義政の功績は想像以上に大きいです。

 



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