室町幕府が誕生しておよそ100年が経った15世紀半ば、世の中を取り巻く空気は微妙なものとなっていました。

幕府の頂点に立つ足利将軍家の権力に陰りが見え始める中、代わって力を持ち始めたのが幕府を支える立場の管領や守護大名たちでした。

 

その中でも高い影響力を誇ったのが細川勝元です。

勝元は20余年にわたって管領職にあり、幕府への影響力は抜群でした。

 

そして権力を持った勝元は、幕府や勝元自身をも巻き込んだ大乱を引き起こしていきます。

今回はそんな細川勝元の人生に迫りたいと思います。

 

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細川勝元の生涯を分りやすく解説

細川勝元(1430~1473)は室町時代の武士で守護大名です。

父の細川持之は室町幕府管領を務めた有力者でした。

 

持之の死後、家督を継ぐと摂津国や丹波国などの守護に任じられ、続いて管領の職に就きます。

ちょうどそのころ、各地の守護大名では後継者を巡って争いが頻発していました。

勝元はこれに積極的に関わることで存在感を発揮します。

 

 

こうした中、後継者問題は幕府の屋台骨である足利将軍家にも飛び火しました。

8代将軍義政と妻・日野富子には子がいなかったため、仏門に入っていた義政の弟・義視を次期将軍として迎えることで一旦は話がまとまりました。

しかし、ほどなく富子が義尚を授かると状況は一変しました。

 

義政と富子は義尚を次期将軍としたのです。

この決定に幕府内では動揺が広がります。

 

義視を支持していた勝元は、これに反対し撤回を求めました。

このとき勝元に同調したのが有力守護大名の山名宗全でした。

 

宗全は、勝元と共謀のうえ義政側近を失脚に追い込むと義政は政治への関心を失い政治空白が生まれてしまいます。

これを好機と見た宗全は、自身が支援する大名の管領への任命を義政に要請しこれを実現させます。

 

それと引き換えに勝元が支援する大名が管領を解任される事態となり、勝元は宗全との戦いを決意します

 

こうして始まった応仁の乱は京都を戦乱の渦に巻き込んでいき、全国に拡大していきます。

しかしその最中、宗全が死去すると、数ヶ月には勝元も死去しています。

 

関連記事→足利義政ってどんな人?応仁の乱の原因と銀閣寺を建てた理由を解説!

 

将軍を補佐する名家の出身

聡明丸は元服の際、7代将軍・義勝から一字賜り、名を勝元と改めました。

義勝は幼くして将軍となったため政治能力が乏しく後見する立場の管領が政治を務めました。

それが勝元の父・持之です。

 

つまり勝元は持之を通じて義勝と近い関係にあったのです。

そのことから義勝が親しみを込めて一字を送ったのかもしれません。

 

高度な文化人で龍安寺を建立する

勝元は生涯で3度も管領を務めています。

そして仕事だけができるだけではなく、和歌や絵画を嗜むなど文化人の一面も持ち合わせていました。

 

禅にも造詣が深く、京都に石庭で有名な龍安寺は勝元が建立したお寺です。

そのほか自ら医学書を著すなど文武両道を極めた人物でした。

 

龍安寺を写真で紹介!石庭の秘密とは?

勝元が建立した龍安寺は応仁の乱で焼失しています。

そのため、現在の龍安寺は後に再建されたものです。

 

 

龍安寺は石庭が有名ですが、鏡容池の周囲を歩いて回れる回遊式庭園があり、寺領はかなり広いです。

 

 

そして、龍安寺の石庭にはある秘密があります。

石庭には15個の石があるのですが、どの位置から見ても必ず1つの石は見えないようになっています。

 

 

禅のことは詳しく分かりませんが、

 

「1つの視点からでは全てのことを見通す事はできず、物事には必ず見えない理由や原因がある。」

 

といった感じでしょうか?

 

そして龍安寺はつくばい(手を洗う水を貯める手水鉢)も有名。

 

 

真ん中の穴を「口」という漢字にすると、「吾」「唯」「足」「知」という感じが出来上がり、「吾れ唯(た)だ足ることを知る」という言葉になります。

 

山名宗全との関係

山名宗全といえば応仁の乱で敵方の総大将を務めた人物。

勝元にとっては倒すべき相手です。

 

とはいえ、ふたりは最初から不仲だったわけではありません。

勝元は宗全の養女を妻に、子の豊久を養子に迎え、山名氏との間に縁戚関係を結んでいました。

 

関係を築くことで、他の実力者たちを牽制する狙いがあったのです。

しかし、それも長くは続きませんでした。

 

勘合貿易を巡って勝元と対立した周防国の守護大名・大内政弘が宗全に取り入ったのです。

このことをきっかけに、尾張の守護大名・斯波氏のお家騒動や将軍殺しの謀反人・赤松氏のお家再興問題などで両者の関係は微妙なものとなっていきました。

 

そして、勝元に子が生まれると養子の豊久を幽閉。

これに怒った宗全は自身が支援する畠山義就に上洛を促すとともに、勝元が支援する畠山政長の管領の職を解任させました。

 

これで両者の衝突は不可避ものとなり前代未聞の大乱(応仁の乱)が起こったのです。

 

関連記事→3分でわかる山名宗全の生涯!細川勝元との関係を分りやすく解説!

 

突然の死、勝元の死因は?

応仁の乱の最中、総大将を務めていた勝元が突然亡くなります。

その死因は伝染病を患っていたからとも敵軍から暗殺されたとも言われていますが、確固たる証拠がないのが現状です。

 

応仁の乱のその後

応仁の乱のきっかけとなった勝元と宗全がともに死去したことで、争いの理由が失われ乱は沈静化していきました。

翌年には勝元の子・政元が宗全の孫・政豊と和睦し事実上、応仁の乱は終結しています。

 

しかし、この戦いによって時代が大きく変化していきまいた。

室町幕府の権力だけでなく、それを支える管領さえも、もはや無意味な時代が到来したのです。

 



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