織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑!政治面で一番優秀なのは誰?

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が行った政策は多くの人が習った事があるでしょう。

特に、彼らが行った政策はどれもそれまでには例のない政策ばかりで、それぞれの時代背景に沿った独特の政策です。

 

今回は彼らがどのような政策を行ったのか改めて確認し、そこから自分なりに彼らの時代を俯瞰してみることとしましょう。

 

あなたも改めて彼らの政治家としての姿を確認してみてはいかがでしょうか?

 

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海外進出を目指し、宗教勢力の危険性にいち早く気づいた織田信長

 

楽市楽座と関所の撤廃

信長が行った政策の代表格は楽市楽座ですが、政策自体は他の大名も既に行っており、信長が特別早かったわけではありません。

まずは、その事を念頭に置いておいてください。

 

では信長の何が特徴的だったのかというと、楽市楽座という名前を制令として出したことです。

この時代の商業はその土地ごとにある座・株仲間らによって利益が独占されていましたが、信長はこれに対して商業を大名が統制するように誘導し、新興業者でも盛んに商売ができるように自由取引市場を作ることで利益を生み出そうとしました。

 

これによって信長が支配する土地は圧倒的な収益を上げることに成功しますが、その本当の狙いは商人を意図的に増やすことで彼らを信長の支配下に集めることでした。

 

既得権益である座も決して徹底的に攻撃を受けたわけではなく、むしろ場合によっては普通に存在します。

これはどういうことかというと、楽市楽座というのは自由に商売を行っていいとは言いますが、実のところそうして商人を増やして囲い込み統制するというのが本当のところでした。

 

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信長のもう1つの代表的な政策は関所の撤廃です。

この頃の関所は通過するために税金を取るシステムがありました。

 

本願寺などはこれで暴利を貪っていましたが、信長は領内における不必要な関所を廃止し、経済と流通を活性化させることに注力しました。

 

信長・秀吉に仕えた千利休・今井宗久といった茶人達は大坂・堺にて交易を貿易を行い膨大な利益を揚げていましたが、当時は茶器や舶来品が大流行にしており、彼らは金持ちである大名相手に商売を行っていました。

信長はこうした海外貿易にも積極的だったのは有名ですね。

 

宗教に対する姿勢

戦国大名の中でもいち早く京都の足利将軍家を擁して天下に号令をかけた信長ですが、彼の事績を追ってみると、信長の最大の宿敵は実は戦国大名ではなかったことがわかります。

 

信長が最も時間をかけて追い詰めていった勢力は大坂本願寺です。

先述の通り、当時の寺社・宗教勢力といえば経済力はおろか大義名分を掲げては大名を突き動かして軍事行動を起こす、戦国大名にとっては最も厄介な勢力でした。

 

本願寺近辺の機内勢力はほぼ本願寺の息がかかった大名ばかりで、信長は上洛以来とても手を焼いていました。

信長と言えば、「第六天魔王」と自分を誇示する考えを持っていましたが、これは実は本願寺や朝廷といった既得権益を有する勢力に対する宣戦布告といった趣向の方が強いのです。

 

しかし、信長自身は自分の信仰は法華宗であることを公称しており、決して仏教が嫌いだったわけではありません。

これは『三国志』の曹操が凄まじい武力を有する黄巾党や五斗米道の信者を危害さえ加えなければそのまま信仰を容認し、さらには自軍に加えたというものとどこか似ています。

 

有名な比叡山の焼き討ちに関しては、当時の比叡山の僧の退廃した実態を見て攻撃したともいわれており、今日我々が知っている信長像はほぼイエズス会のルイス・フロイスが記した「日本史」によるものであることを留意する必要があります。

実際、信長は神道を保護する政策も割と頻繁に発令していますし、武力さえなければその実宗教を人並みに愛好していたと考えるべきでしょう。

 

朝廷との関係

信長は朝廷に対してはかなり攻撃的な態度をとっていたことで知られています。

 

以前、安土城の作りを再現したCGをテレビで見たことがあるのですが、自分がいるべき天守閣は城の中で最も高い位置に存在し、その下に各城郭、それに城下町が整備されていました。

そして、最大の特徴は天守閣の1階近くに天皇を迎える御所を建てていたことです。

 

信長は当初は朝廷にはかなり温和な態度をとっていましたが、次第に朝廷のいうことを聞かなくなったとするのが一般的なイメージでしょう。

 

当時の正親町天皇(おぎまちてんのう)は、信長政権末期になると正式に譲位をしようかと半ば本気で考えていたような節があります。

しかし、内外に問題を抱えた信長の経済的理由によって結局はおじゃんとなっています。

 

後の豊臣・徳川政権とは異なり、信長時代に官位を受けた家臣は意外なほど少ないです。

これはよくよく考えると、信長は天下統一を成し遂げたわけではないし信長自身も右大臣になった以外はそれほど頻繁に官職を賜ったわけでもありません。

 

晩期の信長にとっては朝廷の官位など大した意味はなかったのかもしれませんが、受け取れるだけの経済的根拠がなかった可能性もあります。

 

1580年(天正8年)、信長は突如一部の家臣に追放命令を出します。

対象となったのは、佐久間信盛・安藤守就・林秀貞といった、長く信長に仕えた功臣達。

 

彼らは突如20年以上も昔の謀反疑惑を追及されてリストラされたわけですが、もしかしたら朝廷からの譲位を受けるために老臣をリストラして人件費を削減しようとしたのではないでしょうか?

 

実は信長は本能寺の変の直前には関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかを朝廷から賜る予定がありました。

この頃になると信長は統一した天下統一を果たした暁には暦を自分の故郷・尾張で使用しているものに統一するという宣言を出しており、もう心の中では半分以上天下人のような意識でした。

 

しかし、それも本能寺の変で全ては闇の中、安土城も謎の放火によって焼失し現在信長政権の目的を知ることはできなくなりました。

 

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天下統一を果たし道しるべを残した豊臣秀吉

 

官位を最大限に利用

信長死後、天下は秀吉の元に転がり込んできます。

秀吉は信長や家康とは違い、全くの卑賎の身の出身、下剋上の最たる例ともいえる成り上がり者でした。

 

彼の最大のコンプレックスは、政権樹立を考えた時点で無位無官、姓も持ち合わせてないという事。

朝廷からもらう官位は大名を統制する権威付けとして必須でしたが、文字通り力づくでのし上がった秀吉にはこうした大義名分がありませんでした。

 

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小牧長久手の戦いの後に家康がなかなか秀吉に従わなかった理由の1つに官職上の優劣があったのです。

 

秀吉は後に無理やり近衛前久の養子になろうとするなど、朝廷にはとにかく力づくで対応していました。

彼が関白に就任した後は、その権威を利用してそれに従わない大名(島津・北条など)を討伐の対象とするなど、朝廷を権威づけに利用していました。

 

朝廷の権威は秀吉にとっては絶対不可欠なものでした。

これをうまく利用して秀吉は主君であるはずの織田家を上回る力を得て、さらには公家にしかもらえないはずの官位を諸大名にバンバン与えます。

 

秀吉自身はあくまでも天皇の臣下でしかありませんが、実際は歴史上よくある傀儡(かいらい)政権のような形として成立しています。

 

検地と刀狩

一大名であった信長とは違い、日本列島全てを掌握しきった秀吉は、朝廷の名を借りて大名同士の私闘や略奪行為を禁止する命令を出しました。

惣無事令や刀狩令などはこの政策の一環です。

 

戦国時代の代表的な土地制度は貫高制でしたが、貫は度量衡としてはとても不安定なものであったので、秀吉時代に石高制に変更されています。

信長時代にも導入されていましたが、秀吉はこれを全国の大名に反映させることとなりました。

 

太閤検地は新しい度量衡に沿って行われる土地計測や経済力計測であり、秀吉政権の黎明期から漸進的に行われてきました。

石高制はご存知の通り江戸幕府でも引き続き採用され、明治維新まで長く使われることとなるのです。

 

宗教に対する姿勢

秀吉は信長以上に宗教に対して圧力をかけていました。

本願寺の流れを汲む根来・雑賀などは豊臣政権の初期に滅ぼされています。

 

かの有名な高野山は、大名が出家した後に庇護を受ける場所としても有名でしたが、秀吉はこれを武力にて降伏させ支配下に置いています。

 

キリスト教に対してもバテレン追放令などが知られ、とても強硬な態度で臨んだと言われています。

ただ、実際は発令当時は領内での普及は点在的に認められていました。

 

しかし公式にはイエズス会やスペインのフェリペ2世が日本を攻めようとしていたとする事を知って、交易好きだった秀吉にしては急に弾圧を徹底するようになります。

秀吉は信長も行おうとしていたかもしれない大陸進出を実際に行い、彼の視野は世界へと広がっていきました。

しかし、その夢は果たせることがなく結局無駄に国費を浪費させてしまったに過ぎませんでした。

 

大陸進出

秀吉最大の野望・大陸進出ですが、もちろんこれには多くの者が反対していました。

後継者と目された甥の関白・秀次はその筆頭格で、彼は形式上既に豊臣家の家督を相続している存在でした。

 

秀吉は明を倒して北京に住み、日本は秀次にあげれば事足りるという発想でした。

しかし秀次は、日本を治めるのに手いっぱいなのにその上海外に出るなんて考えられないと激しく批判していました。

 

ここで言われるのは、秀吉配下の武将達が天下統一後、途端に活躍の機会を奪われてしまったのでその不満を海外に向け発散させることが目的だったというのがありますが、当時の雇用情勢が如何なるものだったのかはよくわかりません。

 

確かに、これまで著者が書いた記事を見ると武辺者には厳しい世になったのかもしれませんが果たして・・・・・。

 

あまつさえこの時期、秀吉には喜ばしいことが起こります。

実子・秀頼の誕生です。

 

秀吉は当時秀次・秀勝・秀保の3人に日本を任せようとしていましたが、彼らは揃って早くに亡くなっています。

秀吉は長年実子に恵まれなかったため、秀頼をどうにか後継者にしようと考え秀次排除をかんがえたのでしょうか?

 

大陸進出反対はその恰好の口実でした。

こうして、秀吉は反対者を次々とつぶしていきます。

 

秀次はその大々的な犠牲者とみるべきでしょう。

 

秀吉は親族が少ないことから本当は彼らを大事にし真剣に付き合うべきでした。

彼は卑賎の身でありながら幸運に恵まれて天下人にまで登り詰めました。

 

彼はあちこちの大名を養子にするなどして政権の命脈を保とうとしましたが、その辺りのさじ加減を誤ったために政権は短期で崩壊することとなるのです。

 

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明治まで続く徳川家康の政策

 

海外政策

家康が政権を取ったのは既に60歳を過ぎてからの事です。

秀吉の大陸進出が失敗に終わると、彼は国内外の情勢不安を理由に鎖国を選択します。

 

当時のアジアはスペインらによって好き勝手にされている状態でした。

貿易を規制するのは当然の流れかもしれません。

 

しかし、実際は各国との貿易は続けており日本の発展のためには外国人を積極的に登用したのも家康です。

三浦按針などはその代表格でしょう。

 

家康は東インド会社との貿易や李氏朝鮮との貿易には積極的だったので、危害を加えない相手には普通だったのは信長・秀吉と共通しています。

しかし、幕府から特別に許された者を除いては妄りに外国と取引をした場合、最悪は斬首という厳しい処罰を設けていたのもれっきとした事実です。

 

禁中並公家諸法度・武家諸法度

江戸幕府は外国には勿論、日本列島の大名や朝廷にもとにかく厳しく規制を設けたことで知られています。

禁中並公家諸法度・武家諸法度等は彼らに対する訓戒と統制の意味を厳しく設けたものです。

 

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これによって取り潰された大名は数多く、関ヶ原の戦いで功績を挙げたはずの福島正則なども後に勝手に城を修理したという言いがかりで処分されてしまいます。

 

江戸幕府は特に外様大名に関しては厳しく接していました。

なぜなら、外様大名の大半は元は反徳川の勢力であったり、親徳川であっても勢力が大きいゆえに警戒されていたとされる大名が多かったからです。

 

例えば、仙台の伊達政宗は江戸の町の整備をわざわざはるばる会津から来て行うように命令され、なおかつその費用は幕府が負担してくれないので当然のように仙台藩が負担していました。

伊達政宗が豊臣・徳川政権下でもなお天下を狙おうとしていたのは皆さんも周知の通りで、家康や秀忠が知らないわけがありません。

 

実際、政宗の政治力は群を抜いており、後に家康死後には江戸に送られる年貢米の1/3は仙台藩から来るものだと言われていたほどの生産量を誇りました。

政宗の生前の夢は100万石を手にすることでしたが、実質の生産量で言うと確実に100万石は超えていたようです。

 

さて、武家諸法度は江戸幕府成立の際に家康が武家に向けて発令した大名家への訓戒と幕府に従うための心構えとしての条文ですが、禁中並公家諸法度は文字通り公家や皇室に向けた訓戒と戒律でした。

 

その中で特に気になるのが「武家の官位と公家の官位は別とすること」という条文です。

これは完全に武家でありながら関白になった豊臣家のような存在を二度と出さないようにするための決まりで、唯一徳川家を除きその他の武家は一切公家の官位を踏襲してはならないというものでした。

禁中並公家諸法度は大政奉還まで一切修正を加えられることなく適用されました。

 

こう見ると、家康の江戸幕府は何とも保守的で厳粛な政治体制だと感じることでしょう。

とても積極的に海外に目を向けていた信長・秀吉の時代とは違い、世界では覇権を握っていたスペインのフェリペ2世が亡くなり(秀吉が亡くなる数日前の事です)、ヨーロッパの勢力が徐々にアジア貿易圏から遠ざかっていった事でした。

 

そもそも江戸幕府成立期にはアジア貿易圏も殆ど開拓し終えてしまい(東南アジア除けば東アジアは地理的にもほぼ日本が最終地点だったでしょう)、日本市場は安定期を迎えていました。

 

それに秀吉時代から東南アジアでは植民地支配が始まっており、日本も狙われていたかもしれないという考えは当時からありました。

秀吉の禁教令に続き、家康もそれを継続せざるを得ない状況でした。

 

最も、これには近代の文学者達を中心に否定的な意見があり『鎖国のおかげで日本人は内向きな性格がどうしようもないくらい根付いてしまった』という見解もあります。

 

しかし、当時の世界情勢を見ると果たして信長時代と同じように貿易を行うことが正解だったかどうか分からないものです。

しかし、江戸時代に作り上げられたものは皆現代まで受け継がれているものです。

 

家康の功績はそれだけでも信長・秀吉には比肩しえないものでしょう。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

日本の戦国時代は、日本が世界に目を向けはじめるようになった時代でした。

 

三英傑全員に共通することは、国内の統制に目を向けながらも海外を視野に入れていたことです。

しかしその形は信長・秀吉時代と家康以降では形が異なってきます。

 

信長・秀吉の時代は1にも2にも攻めの姿勢でとても積極的にイエズス会や南蛮の品物を取り入れていました。

しかし、世界を目指すことは同時に国内に不安定を呼び寄せてしまったようです。

 

彼らの政策の弱点の1つには、宗教勢力を敵に回してしまったということでしょう。

当然、家康も本願寺の跡目争いに言及したりと必ずしも寛容だったわけではありませんが、宗教を敵に回すと国内の厄介ごとが増えてしまうのは致し方ない事です。

 

秀吉が亡くなった時点で、日本の宗教勢力や内政構造はボロボロになっていました。

その後を継いだ家康が秀吉時代の悪習だった余りにも掟破りな政治を直ちに取りやめ、厳格なリールのもとで国を統制する流れに至ったのは当然の流れかもしれません。

 

著者個人としては、小さな島国を世界の中の日本という位置づけにしたのは信長、世界の中の日本を売り出そうと思い失敗したのが秀吉、秀吉の失敗を鑑みて売り方を改めたのが家康という感じですが、皆さんはいかがでしょうか?

 

ちなみに著者が一番好きなのは最初は信長でしたが、江戸幕府の政治について勉強した後は家康が一番好きになりました(秀吉は正直あまり・・・・汗)。

 

彼が作り上げた日本はそのまま現代にまで通じる精神が生まれた時代だなあと、感じるからです。

 

点数をつけるとしたら、短命に終わった秀吉は67点、惜しくも構想を実現できなかった信長は73点、日本の形を完成させた家康は82点といったところでしょうか。

 

【文・いちたか風郎】

 

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