戦国時代の島津家には優秀な4兄弟がいました。

その中でも特に戦上手として知られていたのが四男の島津家久です。

 

家久は大名クラスの武将を3人も討ち取るなど実績が抜群。

同じく戦上手として知られた兄の義弘と島津家最強の称号を分け合っています。

 

では、島津家久とはどんな武将で、どんな性格だったのでしょうか?

今回は島津家最強の家久の魅力を紹介していきます。

 

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島津四兄弟末っ子、島津家久とはどんな人物?

島津家久は島津貴久の四男として1547年に誕生します。

島津義久、島津義弘、島津歳久を兄に持ちますが、母親が違い、身分の低い女性であったとされています。

 

島津家久

出身国 薩摩(鹿児島県)
生没年 1547年~1587年

(享年40歳)

経歴や逸話 沖田畷の戦いで龍造寺隆信(肥前の大名)を討ち取る。
戸次川の戦いで長宗我部信親(元親嫡子)を討ち取る。
明智光秀に誘われて一緒にお茶を飲んだことがある。
島津義久や義弘とは母親が違う。

 

それでも兄弟仲はとても良く、14歳も年が離れていました義久は家久をとても可愛がったと言います。

家久は自分だけが母親が違うと悩んだ時期があり、その時に義久は、「誰が親なんて関係ない、しっかり学問に励み、立派な人間になれ」と家久を励ましています。

 

義久の言葉に奮起した家久は文武や学文に励み、やがて島津家一の戦上手に成長します。

祖父の島津忠良(日新斉)は家久を「戦術を練るのが上手い」と評価しているので、本人の努力に加えて、武将としてのセンスも備えていたのではないかと思います。

 

有力武将を討ち取った沖田畷&戸次川の戦い

島津家久の功績は多くの戦で勝利していること。

その中でも龍造寺隆信の軍勢と戦った沖田畷の戦いと、仙石秀久、長宗我部元親軍と戦った戸次川の戦いは家久の戦術家としての一面が発揮された戦いでした。

 

沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取る

有馬晴信から援軍要請を受けた島津氏は、家久を総大将として軍勢を島原に派遣します。

 

この時、龍造寺軍は島津軍の倍以上の兵力を誇っていたのですが、家久は軍勢を複数に分けて沖田畷(おきたなわて)の物陰に隠れさせます。

 

そして1つの軍隊でわざと負け戦を演じて撤退。

追撃してきた龍造寺軍を沖田畷までおびき出します。

(この戦法を「釣り野伏」といいます。)

 

沖田畷というのは田んぼや湿地に囲まれた地域で、その中央に1本の道があるだけでした。

ここになだれ込んだ大軍は身動きが取れなくなり、島津軍の伏兵による鉄砲や弓矢の攻撃で討ち取られていきます。

 

そして戦場が大混乱になっている中、家久は本陣を急襲して龍造寺隆信の首を取ります。

 

 

沖田畷の戦いは、野戦で戦国大名が討ち取られるという珍しい戦いになりました。

(他には今川義元が討ち取られた桶狭間の戦いなどがあります。)

 

戸次川の戦いで長宗我部元親の嫡男を討ち取る

戸次川の戦いは島津軍と豊臣秀吉の先鋒隊との戦い。

家久は九州征伐の先鋒として九州に上陸した仙石秀久軍を打ち破っています。

 

この戦いで家久は長宗我部信親と十河存保を討ち取り、大勝利を収めます。

嫡男を討ち取られた長宗我部元親はこの戦い以降、人が変わったように没落していきます。

 

関連記事→3分で分る長宗我部元親!姫若子の評価や秀吉との関係を簡単に解説!

 

このように実戦で敵の大将クラスの首を取ることが多かったことが、家久が島津家最強の武将と言われている理由です。

(兄の島津義弘の戦績も半端ではないので、島津家のツートップというのが正しいかもしれませんが・・。)

 

 

島津家久の得意な釣り野伏とはどのような戦術?

島津家の戦いで良く耳にするのが、釣り野伏という戦法です。

 

島津義久が考案したと言われるこの作戦は、兵を三方に分け、まずは真ん中の兵が敵と戦い、負けを装いつつ敗走。

そして追ってくる敵を狭い場所へと誘い込み、そこへ待機していた2隊で包囲し、負けを装っていた兵も反転して攻撃をするという戦術でした。

 

つまり、狭い場所に誘い込まれた大軍は3方からの攻撃にさらされる訳です。

 

この釣り野伏を使って沖田畷の戦いでは肥前の龍造寺隆信。

戸次川の戦いでは長宗我部信親、十河存保の首を取っている家久。

 

島津義弘もそうですが、釣り野伏は家久の得意の戦術だと言われています。

 

島津家久が独断で豊臣秀長と和睦!

沖田繭の戦い、戸次川の戦いと順調に勝ち続けていた家久。

そこに豊臣秀長を総大将とした軍勢が豊前小倉に到着します。

 

 

そして豊臣軍vs島津軍の根白坂の戦いがおこります。

 

この時の秀長軍は20万を超える大軍。

しかも全国各地の名将を率いての参戦なので、さすがの家久も勝ち目はありませんでした。

 

こうして、島津軍はたくさんの勇猛な武将の命を奪われ敗北。

撤退を余儀なくされます。

 

最終的に島津義弘は豊臣秀吉に降伏しましすが、最後まで徹底抗戦をすることを主張した兄の義弘や歳久と違い、家久は単独で豊臣秀長と和睦していました。

 

この点が、ただ単に勇猛なだけでなく、戦の流れをしっかりと見極められる武将としての資質ではないかと思います。

 

 

島津家久の死因は?早すぎる最後の謎?

そして豊臣との和睦の後、家久は40歳の若さで急死します。

一般的には病死という説が有力ですが、家久の死因は良く分かっていません。

 

あまりにも突然の死だったので、「豊臣秀長が毒を盛った。」「単独講和をしたために本家に毒殺された」という説もあります。

 

関連記事→豊臣秀長って何した人?秀吉の弟の功績を分りやすく解説!

 

少し前まで戦場で指揮をとっていた家久が突然病気で亡くなるというのは少し無理があるような気がします。

 

もしかすると豊臣軍の強さを認めて無駄な戦死者を出さないために講和はしたものの、秀吉の下で生きることは家久の武将としての美学に反した・・・。

そんな思いがあって・・・ということがあるのかもしれませんね?

 

息子の豊久も名誉ある討ち死にを遂げる

島津家久が豊臣秀長と和睦し、島津家当主義久が豊臣秀吉に降伏。

この結果を良く思っていなかったのが、家久の息子、島津豊久です。

 

打倒豊臣を目指す豊久には、尊敬する父家久が秀長と和睦をした事が許せなかったのでしょう。

これ以降、今までの仲睦まじい姿は見られなかったという説があります。

 

そして豊久は家久の死後、自分を本当の息子のように可愛がってくれた義弘に忠義を尽くします。

 

義弘は西軍として関ヶ原の戦いに参戦。

西軍敗北が決定的となった時に、義弘は僅か300の兵で敵に突進して退却することを決めます。

これが今なお語り継がれる島津の退き口です。

 

この時、豊久は捨てがまりと言う戦法で敵を足止めし、捨て身で義弘を逃がしました。

そして豊久は、31歳の若さでその生涯を閉じます。

 

関連記事→3分で分る島津義弘!!関ヶ原の敵中突破や朝鮮出兵での強さを解説!

 

 

意外!?明智光秀と家久の交流

家久は伊勢神宮にお参りするために上洛したことがあります。

この時に坂本に泊まる機会があり、坂本城主だった明智光秀と会っています。

 

 

坂本では光秀と一緒に船に乗って坂本城を見学。

一緒にお酒も酌み交わしたようです。

 

そして翌日。

家久は明智光秀から茶会に招待されます。

 

しかし「茶の湯」のことが分からなかった家久は「茶の湯のことは良く分からないので、お湯をください。」と言って、遠慮しています(笑)。

素直で飾らない家久の性格がでていますね。

 

その後は一緒にお風呂に入ったようです。

この時の光秀は長篠の戦い前で忙しかったようですが、着物を送るなど、家久を丁重にもてなしています。

 

歴史に名を残す武将の意外な逸話がとても興味深いですね。

 

関連記事→明智光秀と南光坊天海は同一人物?その可能性はあるのか?

 

島津家久は二人いた!もう一人の家久とはどんな人物?

島津家久と言えば、島津四兄弟の家久を思い浮かべますが、実は同じ名前の島津家久がもう一人存在しました。

そのもう一人の家久とは島津義弘の三男島津忠恒です。

 

忠恒は男子に恵まれなかった義久の娘婿でもありました。

後に徳川家康の一文字を取って、家久と改名しますが、叔父と同じ名前と言う事もあり、忠恒と呼ばれる方が多かったようです。

 

このもう一人の家久こと忠恒は、根白坂の戦いで秀長に和睦交渉をした伊集院忠棟を暗殺し、その息子の忠真(ただざね)も殺すなど問題の多い人物でした。

忠真は忠恒の妹の婿でもあり、こんな色々な悪評から、悪い家久とも呼ばれ、叔父の家久とは比べられる事もあったようです。

 

 

まとめ

島津最強四兄弟の末っ子として誕生した家久。

そんな勇猛果敢な家久は数々の名声を残し、僅か40歳の若さで亡くなってしまいます。

家久がもう少し長生きして、関ヶ原の戦いに参戦していたらどうなっていたのかなと興味を感じるところでありますが、これからもずっと薩摩の英雄である事は間違いないでしょう。

 



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