今川義元。

その名前を聞いた人は「ああ、桶狭間の戦いで織田信長に殺された人だよね。」から始まり、「信長とは対照的に公家かぶれで気が緩んでいた人」というところにたどり着くと思います。

 

しかし、歴史愛好家が増えてきた現在では義元が本当は信長・秀吉・家康を越えるような逸材であったと見直されてきています。

 

そこで今回は、今川義元の一般的なイメージと実像の違いに迫っていきましょう。

 

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公家かぶれの人物像と国主としての顔

今川義元といえば、昨今の漫画やゲーム等でも公家風の下手物キャラとしてのイメージを確立させてしまっています。

 

KOEIの『戦国無双』シリーズでは、公家風の白粉に鉄漿。

そして蹴鞠をサッカーのように操るキャラとしての印象が深いですね(著者の持ちキャラですが汗)。

 

 

そこからさらに飛躍して、義元は戦ができない、まるでダメな人物だという発想にまで至っている人もいるようです。

勿論、これは大いなる誤解です。

 

なぜなら、義元は戦はおろか内政でも頗る腕を振るって駿河の守護大名だった今川家を戦国大名にまでのし上げた一代の奇才だったからです。

 

1519年(永正16年)、義元は今川氏親の五男として生まれました。

彼が生まれた当時は父が手腕を振るって今川家は一大勢力となっていましたが、義元が幼少の頃に氏親は亡くなってしまいました。

そして、跡を継いだ兄の氏輝も10年で帰らぬ人に・・。

 

当時、義元は仏門に入っていましたが、氏輝には子がなかったために義元と兄との間に後継者争いが起きます。

これを「花倉の乱」といいます。

これに勝利した義元は、以後国主としての権力を強化することに努めます。

 

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義元はまず兄の時代に敵対していた甲斐の武田氏と政略結婚を行い、同盟を結びます。

しかしこれによって盟友の北条氏綱が義元に怒り北条との同盟が決裂してしまいます。

 

未だに花倉の乱の混乱を治めきれてなかった義元はこれによって井伊氏などの近隣の豪族を敵に回してしまい、北条との戦を長期化させてしまいます。

この頃の義元にとって最大の敵は尾張の織田信秀でした。

信秀は義元と三河の所有権を巡って争っていましたが、義元は苦戦しながらもどうにか信秀の侵攻を防ぐことに成功します。

 

今川と武田の同盟は、武田の当主が信虎から晴信(信玄)に代わってからも続きました。

同じ頃、北条の家督も氏綱から氏康に引き継がれていましたが、氏康も当初は反今川派でした。

義元は武田や関東の上杉氏と連携して氏康を挟み撃ちにしようとします。

しかし、苦境に立たされた氏康はここで義元に講和を申し込み後顧の憂いを絶つと、氏康は奇襲によって上杉氏を倒してしまいます。

この講和は義元にとっても長年悩まされた関東の憂いをひとまず解決させることとなり、義元は以後しばらくの間眼前の織田信秀を集中的に叩くこととなります。

 

勢力拡大した手腕

武田・北条との緊張緩和は義元に領土拡大の余裕を与えることとなりました。

 

当時、三河は今川・織田との間で激しい抗争が行われていました。

そのカギとなったのは三河の豪族・松平広忠でした。松平家は元々広忠の父・清康の時代に三河を統一し、このままいけば海道統一も夢ではないと言われていた英傑でしたが、『三国志』の孫策が如く25歳で殺されてしまいました。

 

広忠は幼いながらも家存続のために義元に臣従を誓い、そのために息子の竹千代(後の徳川家康)を人質に差し出そうとしました。

しかし、その途上で戸田康光が突如今川を裏切り信秀に竹千代を差し出してしまうのです。

広忠自身はそれでも義元への忠誠を曲げませんでしたが、竹千代を得た信秀はそれを理由に義元に攻撃を仕掛けます。

 

織田vs今川の大決戦、小豆坂の戦いです。

 

義元は自軍に、「寄親・寄子」という組織形態を組ませていました。

寄子と呼ばれる小部隊や兵士が寄親と呼ばれる部隊長によって指揮されるというシステムですが、しゃにむに突っ込んだ織田軍に対し今川軍は至極冷静に反撃し、結果織田軍は大敗してしまいます。

 

同じ頃、松平広忠が謀反によって殺されてしまいました。

竹千代は相変わらず信秀の元にいたため、三河は空白地になってしまいました。

 

義元は三河をそのまま占領し国人を今川家に取り込んでいきます。

そして信秀との戦で庶長子・信秀を捕らえ人質交換で竹千代を奪還、三河抗争は今川家の勝利に終わりました。

間もなく信秀は亡くなり、当主が信長に代わると義元は尾張への圧力をさらに強めます。

 

一方、関係を修復していた武田・北条とは連年義元の主導で政略結婚を繰り返すことで同盟関係を強めていきます。

「甲相駿三国同盟」と呼ばれるこの同盟は、中部・関東地方の脅威となっていきます。

1553年(天文22年)、義元は父がかつて定めた法令「今川仮名目録」に条文を追加し、現在駿河を治めているのは足利将軍家の命令ではなく今川家自身の意志でやっていることであると表明し、戦国大名としての決意表明をしました。

 

この法令はどちらかというと実務的な内容がメインで決起文としての価値はそこまで高いものではありませんが、とにかく今川家が足利将軍家から離れ始める契機となりました。

 

この頃、信濃では武田・上杉(長尾)との間で川中島合戦が行われていましたが、義元は晴信に頼まれて講和の仲介を行ったこともあります。

 

長尾景虎(上杉謙信)も義元の命令は無視するわけにはいかず、川中島合戦はさらに続くこととなります。

 

遅くとも1558年(永禄元年)くらいまでには、義元は完全に周囲から頭一つ抜けた大勢力となっていました。

それを見計らってか、義元は形式上家督を息子の氏真に譲って隠居という形を取り、駿河・遠江の統治を氏真に託すこととなりました。

 

桶狭間での最期の様子

領国内を氏真に託すと、義元はさらに積極的に外に目を向けていきました。

 

1560年(永禄3年)、義元は長らく争っていた織田に決定打を与えるべく尾張へと進軍を開始。

当時既に尾張にいた一部の豪族も今川に内通しており、信長は着実に危機を迎えていました。

 

しかし、実際に義元が動員した兵はある研究によればせいぜい5000程度、対して信長が擁した兵力は2000程度。

実はこの合戦だけで見るとさほど兵力に差があるわけではありませんでした。

 

さて、義元はまず丸根砦と鷲津砦に籠る織田の先鋒を倒すと桶狭間方面に敵軍の存在を感知し、そこへ進軍を開始します。

 

しかし、そこで織田・今川両軍が鉢合わせます。

当時、今川軍は勇んで突出した織田の先鋒を討ちとり義元はすっかり気をよくしていたのです。

 

時刻は13時頃、当時の天気は大雨又は雹だと伝わります。

いずれにせよ視界不良の悪天候でした。

 

悪天候に乗じて織田軍は正面から今川軍に突撃します。

先述の通り、両軍の戦力は拮抗していたために両軍は大将同士が直接対峙するほどの乱戦となりました。

当時、義元は輿に乗って参戦していましたが、輿を壊されたためにたまらず徒歩で逃げようとしましたが追いつかれてしまい、自ら剣を振るって戦いました。

 

最初に現れたのは織田家の馬廻衆・服部一忠(小平太)です。

彼は一番槍を飾りましたが、義元は武勇にも優れており一忠は膝を斬られてしまいます。

そこに助太刀に入った毛利良勝(新助)がとどめを刺しますが、この時に義元は良勝の指を噛みちぎったと言われています。

 

義元の首級は信長に差し出された後、丁重に葬られました。

義元を初め、多くの重臣がこの戦いで戦死。

今川家はあっという間に衰えていくこととなりました。

 

ところで、桶狭間の戦いには成人した竹千代こと松平元康も参加していました。

彼は大高城の守備を任されていましたが、義元戦死の報を聞くと自らも包囲されて切腹を覚悟します。

 

しかし、どうにか思いとどまって本国へ帰還し自立を画策するのです。

 

義元の性格について

今川義元が公家の教養に優れていたのは本当です。

 

そもそも今川家は足利家、ひいては源氏の直系。

鎌倉・室町時代と代々守護大名として繁栄していた今川家ではこのような公家の教養を身に着けるのはある意味で当然のことでした。

 

公家のような様相でいたのも決して卑下すべきでない教養の証であり、輿に乗っているというのは貴族階級の人間にのみ許された特権でした。

少なくとも晩年の義元には幕府からそれを許されるだけの勢力と実力、名分がありました。

そんな彼が公家の教養の一環として様々なことを学んだのも当然の流れでしょう。

 

義元は公家を保護した人物として知られていますが、彼はその中で和歌を学んでいました。

しかし、必ずしも和歌の才能があったわけではなく、どちらかというと武闘派な印象をうけてしまいます。

 

公家との交流は守護大名としての自負もあることから政治的な一面もあったでしょうし、実際彼の教養レベルがどこまでのものだったのかはわかりません。

 

なお、義元が持っていた「義元左文字」と呼ばれる刀は義元の死後に信長が所有することとなり、そのまま秀吉、そして家康へと受け継がれていきます。

 

義元は信長にとっては最初で最高の宿敵だったこともあり、義元は後世の英傑達の中で末永く生き続けていくこととなりました。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

今川義元の軟弱なイメージは、どうも江戸時代以降に作られた徳川贔屓の歴史観から生まれた産物のようです。

 

そういえば、江戸時代には信長死後の豊臣家の歴史についてはほとんど知られることがなく明治時代になってようやく豊臣家の研究が始まったらしいという話を思い出しました。

 

義元はおそらくこれと同じように徳川に苦労をかけた悪者としての役目を担わされてしまったのでしょう。

豊臣家も徳川家の狡猾な手段を隠すために敢えて黒い役目を背負うこととなった可能性が高いと思います。

 

逆に、徳川飛躍の契機となった信長はいつの時代も賛否両論で盛んに研究されています。

 

しかし、別の面で考えてみましょう。

もし義元がいなく信秀があっさりと海道を統一してしまっていたら、本当の歴史よりも信長の登場が遅れていたかもしれません。

 

そうなると、秀吉・家康の立場も史実とはまるで異なる立場にいたでしょう。

ここまでくるともはや歴史SFになってしまうのでここでお話しする内容とは少しずれてしまいますね(汗)

 

義元・信玄・氏康・謙信ら『戦国の雄』の惜しいところは、信長・秀吉・家康とは違いどれだけの器量を持っていても中央を直接押さえることができなかった以上、あくまで地方勢力という枠組みから逸脱できなかったところにあると思います。

ですが、近年は歴史愛好家の増加やベターな人物のマンネリ化で、義元のような少し違う視点から歴史を見る作家達が増えていく可能性は十分にあるでしょう。

 

義元を知ると、当時の大名達の幕府や公家に対する価値観の相違もとても鮮明に見えてきます。

それは、戦や外交の切り貼りだけでは決してわからない彼らの公的人格を垣間見るいい機会となるでしょう。

 



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