織田信長の妹・お市の方を妻にした浅井長政。

長政は一代で浅井氏の勢力を回復するなど、武勇に優れ、義にも厚い武将でした。

 

ではなぜ、織田信長を裏切って浅井家は滅亡することになったのでしょうか?

今回は「利よりも義を取った武将」、浅井長政について詳しく解説します。

 

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織田信長とは義兄弟!浅井長政ってどんな人物?

浅井長政は六角義賢の配下になっていた浅井家を独立させた武将。

小谷城を本拠地として、織田信長と同盟を結ぶまでに浅井家の勢力を拡大させます。

 

出身国 北近江(滋賀県)
生没年 1545年~1573年

(享年29歳)

主な経歴 近江の小谷城主。
織田信長の妹・市を嫁に迎え同盟を結ぶ。
姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗北。
小谷城を信長に攻められ自害。

 

長政は父の久政が六角氏に服従していたため、六角氏の人質として育ちます。

これに浅井家の家臣は反発し、武勇に優れた長政を当主にと望むようになりました。

 

そして1560年に浅井長政軍と六角承禎軍の野良田の戦いが始まります。

 

この戦いに勝利した長政は六角氏から独立。

北近江の領主になります。

 

そして、一代で勢力を回復した長政の手腕に目を付けたのが尾張の小大名だった織田信長です。

信長は長政と同盟を結ぶために、妹のお市の方を長政の元に嫁がせます。

 

これで長政は絶世の美女と言われたお市の方が妻となり、織田とは義兄弟になります。

 

ちなみに長政とお市の方の間に生まれたのが茶々、初、江(おごう)の三姉妹。

この三姉妹は、それぞれ、

 

茶々→豊臣秀吉の側室(淀殿)

初→京極高次の正室

江→徳川秀忠の正室

 

となっています。

長政の性格は?北近江の民から慕われた心優しき武将

当時の北近江は大名の支配を拒み、村民自らが掟を定め裁判を行っていました。

惣村(そうそん)と呼ばれ、北近江にはこのような村が、数多く存在したと言います。

 

このような村をまとめるのは大変な事でしたが、長政は家臣に任せず自ら村人の話を聞き、武力で押さえつけたりせずに真剣に話し合いました。

こうして村人たちとの距離を埋めて信頼を勝ち得ていきます。

 

これには大名の支配を拒んでいた村人も、次第に長政を慕うようになり、後の織田信長との戦いでは長政の大きな力になったとされます。

 

温厚で心の優しい武将。

それが多くの人が浅井長政に持っているイメージではないでしょうか?

 

織田信長と同盟を結び、お市の方と結婚!

若くして北近江の領主となった長政に、尾張の織田信長が接近します。

この当時、勢力を拡大していた信長は美濃の斎藤氏と戦をしていました。

 

そのため、美濃攻めに集中するために北近江の長政と手を組んでおく必要がありました。

そこで妹のお市を長政に嫁がせることにします。

 

嫁に出すとはいえ、妹のお市は織田家からの人質のようなもの。

この同盟は浅井氏に有利な同盟となっていました。

 

強気で強引なイメージのある信長ですが、この頃は下手に出てでも浅井氏と同盟を結んでおきたかったようです。

 

信長は長政に、「一緒に将軍を助け日本に安定をもたらしたい」と伝えます。

この言葉に感銘を受けた長政は、北近江の安泰にも繋がると感じ、信長との同盟を決意しました。

 

そして信長が京都に上洛する際、南近江の反信長派と闘い、その道のりを手助けしたと言います。

しかし、信長との信頼関係は長く続きませんでした。

浅井長政が信長を裏切った理由とは?

織田信長と同盟を結び、信頼関係を築いていたかに見えた両者でしたが徐々にその関係が崩れていきます。

その原因となったのが越前の戦国大名・朝倉義景。

 

長政は信長が越前の朝倉義景討伐に向かったと言う知らせを受けます。

 

実は浅井家は長政の祖父の代から朝倉家とは同盟を結んでおり、信長との同盟の際も、朝倉家を攻めないと言う約束事まで交わしていました。

しかし、その約束を破って信長が朝倉攻めを開始したのです。

 

この頃の信長は領土も拡大していたので、「長政は自分を裏切れない」という過信があったのかもしれません。

ただ、長政の中には

 

「同盟を結んでいる朝倉氏を一方的に裏切る訳にはいかない。」

「信長に味方をすれば、北近江の領地もいずれは信長の物になってしまうのではないか?」

 

という考えがあったのではないでしょうか?

 

長政は朝倉に味方し、信長を討つ事を決断します。

こうして長政は越前に向け兵を挙げました。

 

信長は浅井、朝倉軍の挟み撃ちに合う前に退却することに成功しますが、これが後の姉川の戦いに繋がっていきます。

 

姉川の戦いに敗れ、小谷城に退散!

姉川の戦いは織田信長と浅井長政の戦いですが、それぞれに徳川家康と朝倉景健が加勢したため、織田・徳川連合軍vs浅井・朝倉連合軍の戦いになります。

 

最初は浅井・朝倉連合軍が有利に戦いを始め、信長をあと一歩のところまで追い詰めます。

 

しかし、徳川軍の榊原康政が迂回して朝倉軍を攻撃。

これで形成が逆転して、姉川の戦いは織田・徳川軍の勝利に終わります。

 

敗れた長政は小谷城に立てこもり、信長に対して抵抗を続けます。

 

長政は領民、そして当時信長と敵対関係にあった比叡山延暦寺や、石山本願寺の僧侶を味方に付け信長攻撃を開始。

この策は信長包囲網と呼ばれました。

 

長政は比叡山延暦寺に兵を置き、信長への反乱を開始します。

各地で起こる一揆に信長は苦戦し、信長包囲網は順調に進んでいきました。

 

しかし、信長は次の手を打ってきます。

自ら朝廷と幕府を動かし、天皇から停戦命令を出してもらいます。

 

この命令により、長政は小谷城への退散を余儀なくされました。

信長包囲網の崩壊!浅井長政の最期!

和睦を結んだ両家でしたが、信長の攻撃は更に激しくなっていきます。

北近江の港を廃止、反信長派との交通の便を封鎖、更には比叡山延暦寺の僧侶を焼き殺してしまいます。

 

これが世にいう「比叡山の焼き討ち」。

信長は浅井の兵をかくまった比叡山の僧たちがどうしても許せなかったようです。

 

そして信長は将軍足利義昭を追放し、実質上の最高権力者となります。

その後、停戦命令を破り浅井攻めを開始。

小谷城を包囲して陥落させます。

 

この時、信長は降伏するように使者を出していますが、長政は最後まで拒み続けています。

そして、お市の方には三姉妹を連れて信長の元に帰るように伝え、自害して果てます。

 

享年29歳。

現在、小谷城の赤尾屋敷跡には「浅井長政自害の地」という石碑が建てられています。

 

織田信長は浅井長政の頭蓋骨を盃にしていた?

信長はこの後に朝倉氏も攻め滅ぼし、浅井長政、久政親子、朝倉義景の頭蓋骨を盃にしたといわれています。

真偽ははっきりしませんが、頭蓋骨に漆を塗り、金粉をかけ飾っていたそうです。

 

しかしこの行いは、成仏して欲しいと言う願いも込められており、魔除けになるという説もあります。

実際の信長の気持ちは分かりませんが、同盟を結んだ二人の関係が憎しみばかりではなかったと信じたいですね。

 

まとめ

浅井長政と言う人物は人に媚びないとても素晴らしい武将だと感じました。

長政の優しい人柄がお市の方との信頼関係に繋がったのでしょう。

 

最終的には信長に敗れ29歳の若さで亡くなってしまいますが、三人の娘によってその遺伝子は受け継がれていきます。

 



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