新撰組の鬼の副長として恐れられた土方歳三。

組織を強くすることだけを考え、局長の近藤勇以上に新選組を厳しく取りまとめます。

 

ただ、「冷たい」「厳しい」というイメージの強い土方ですが、実はとても人間らしい一面を持った人物でもありました。

では、土方歳三はどんな性格でどんな人物だったのか?

 

今回は土方歳三の逸話を分りやすく解説します。

 

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まずは土方歳三の生涯を分りやすく解説!

土方歳三は石田村(現:東京都日野市)に豪農土方家の4男として生まれました。

土方の剣術との出会いは、姉の嫁ぎ先である佐藤彦五郎が自宅の一角に開いた天然理心流の道場。

 

そして土方家秘伝の「石田散薬」の行商をしつつ通ったこの道場で、生涯の友となる近藤勇との出会いも果たしました。

 

 

幼い頃から「バラガキ(乱暴な少年)」というあだ名が付けられるほどやんちゃな男の子だった一方で、祖父や兄の影響により俳句をたしなんでいたという風流な一面も。

土方の俳号は「豊玉」といい、彼はその俳句を「豊玉発句集」としてまとめました。

 

イケメンとし知られる土方のこんなギャップに、当時の女性たちは想いを募らせていたのかもしれません。

 

こうした、剣術修行と俳句に明け暮れた土方の青春時代にペリーが浦賀へ来航。

諸外国からの相次ぐ開国要求に困った幕府は、朝廷と幕府を結びつける「公武合体」で権威を回復しようと画策しました。

 

その手段として、皇女和宮を第14代将軍徳川家茂に嫁がせることに。

これに伴い、幕府方の会津藩は将軍家茂上洛の警護役ができる者を身分も問わずに江戸で募ったのでした。

 

多摩の田舎で武士に憧れている薬売りだった土方は、こうして近藤勇ら道場の仲間たちと一緒に京の都へ。

ここで集まった浪士組が、紆余曲折を経て近藤勇を局長、土方歳三を副長として新撰組になっていきます。

 

新撰組は、土方の冷静な判断でその名を世に知らしめた池田屋事件で黄金期を迎えますが、やがて幕府の衰退と共にその影は薄れ、ついには蝦夷箱館で賊軍となってしまいます。

 

土方は最期まで常に前線で戦い抜き、その生涯の幕を閉じました。

幕末の混乱期と共に生き、その終わりと共にこの世を去ったのが土方歳三という人物です。

 

鬼の副長・土方歳三の鬼っぷりとは?

土方が定めた局中法度により、多くの隊士が切腹や粛清をされています。

局中法度の目的は他でもない新撰組の組織力をアップさせるためでした。

 

これにより亡くなった隊士の数は30人超。

中でも、新撰組ナンバー3であった山南敬助といえども例外ではなく、脱走をした罪で切腹をさせられます。

 

さらには、会計を担当していた酒井兵庫、剣劇師範で尊王攘夷思想を信奉する田中寅蔵といった面々もむごい最期を遂げました。

 

また、初代局長であった芹沢鴨もその粗暴な振る舞いから妾と共に寝込みを襲って殺害。

これらはあくまで組織を守るために必要な措置だったとはいえ、少しやり過ぎではないかと思える数の隊士が敵との戦闘ではなく味方の手によりこの世を去りました。

 

土方は何者にも譲らない信念を持つ男。

武士よりも武士らしくありたいという己の道を貫くべく、心を鬼にして数々の隊士を切り捨てたのだと考えられます。

 

京都では冷酷非情な土方でしたが、晩年は自身の死を悟ると、まだ若い市村鉄之助という小姓に自分の写真を故郷へ届けることを言いつけて彼の命を守ったというエピソードも。

クールな副長の顔の下には、優しい愛情に満ちた顔も隠されていたのかもしれません。

 

モテ過ぎて困った京都で残した子孫とは?

手紙で「モテ過ぎで仕事に支障をきたしている」と手紙に書いて送ったとされているほど、今日の花町で浮名を流した土方。

 

生涯独身でしたが、京都の舞妓である君菊を身請けし女の子が生まれました。

 

しかし、この子は残念ながら1歳足らずで亡くなってしまい、ほどなくして君菊も亡くなりました。

現在では、土方の兄である喜六のひ孫・土方愛さんが生家跡で「土方歳三資料館」を運営しています。

 

土方歳三のあの写真はどのようにして撮られたの?

新選組の初期の隊服は浅葱色のダンダラ(山形)模様の入った羽織。

鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が惨敗した時に新選組が着ていたのも羽織袴の和服姿でした。

 

土方は、幕府軍が敗退するにつれて戦での銃の必要性を痛感し、江戸へ退却する際に銃を手にして服装もフランス式に変更しています。

 

洋装で撮影された写真はポーズの少し違う2種類が残っているのですが、撮影されたのは北海道であるという説が有力です。

 

 

土方が座っている椅子と同様の椅子で他にもたくさんの人が撮影をしていることから、1868年頃ではないかと考えられています。

この写真を撮影しながら、土方は何を思いその目には何が見えていたのでしょうか。

 

信念を貫き生きた土方歳三語録

土方は、その生き方を象徴するような名言を数多く残しています。

そのいくつかをご紹介します。

 

「目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである」(沖田総司に向かっていった言葉)

「我、将来武人となりて、名を天下に挙げん」(若かりし頃、庭に竹を植えた際に残した言葉)

「我儕(わなみ)のごとき無能者は快戦、国家に殉ぜんのみ」(蝦夷渡航を前に医師・松本良順に言った言葉)

「たとえ身は蝦夷の島辺に朽ちるとも 魂は東(あずま)の 君をまもらむ」(辞世の句)

「我この柵にありて、退く者を斬る!」(箱館戦争にて味方を鼓舞するために言った言葉)

 

…どれも、力がありどんな状況下でも決してぶれることのない土方の芯の強さをうかがい知ることのできる言葉です。

 

土方歳三、最期はどんなものだった?

土方が亡くなったのは1872(明治2)年5月11日。

 

  • 井上源三郎、山崎進の戦死
  • 原田左之助、永倉新八との決別
  • 沖田総司の病死
  • 近藤勇の刑死…。

 

心に深い傷を負いながら自らも新政府軍との戦いで重傷を負い、旧幕府軍が追い詰められていく中、最期の気力を振り絞り敢然と戦いに挑みます。

 

蝦夷の地では旧幕府軍が次々と敗戦していきますが、土方が指揮する二股口の戦いは強力な武力を誇る新政府軍を見事に退けました。

 

それでも、土方の快進撃もここまで。

万策尽きて、ついには馬上で敵の銃弾に倒れ討死しました。

 

土方の遺体は行方不明になり、遺体が埋められた墓所というのは存在しません。

 

五稜郭では土塁修築などの際に幕府軍の戦死者の遺骨が見つかっています。

近くのお寺に埋葬しなおしたそうですが、その中には洋装姿のものもあったそうです。

 

もしかすると土方も亡くなった後に五稜郭に葬られ、今は他の戦友たちとともに他の場所に眠っているのかもしれません。

 

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