幕末の土佐藩(今の高知県)の藩主になる山内容堂。

山内容堂は幕末の四賢候(四人の賢いお殿様)と呼ばれるほど頭の良い人物でしたが、同時に無類のお酒好きで、自らを「鯨海酔候」(げいかいすいこう)と称していました。

 

これは鯨(くじら)のように酒を飲む殿様という意味で、どこに行くにも腰にはお酒の入ったひょうたんをぶら下げて、一日に一升以上毎日飲んでいたと伝わります。

 

ただ、この山内容堂は「四賢候」と呼ばれただけあって、ただの酔っぱらいの殿様ではありません。

それでは、この山内容堂はどんな人物だったのでしょうか?

 

今回は山内容堂についてみていきましょう。

 

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山内家と土佐の身分制度

土佐の山内家の初代殿様は山内一豊(やまうちかずとよ)。

戦国時代は豊臣秀吉に仕えて、その後は徳川家康に仕えました。

 

関が原の戦いの功績から土佐一藩の大名に取り立てられtたのですが、当時の土佐には長宗我部(ちょうそかべ)という大名が治めており、山内家はいわば無理やり追い出して新たな土佐の大名になったとも言えます。

 

その時に、山内家の一族・家臣を上士(じょうし)、抵抗する長宗我部の一族などを郷士(ごうし)、として厳しい身分制度をつくりあげ押さえ込みました。

 

この身分制度が後の坂本龍馬や中岡慎太郎のような身分制度を嫌い、新しい世を生み出そうとする幕末の志士がでてくる背景にもつながっていきます。

 

実は藩主になる立場になかった容堂

容堂は土佐藩10代藩主豊策(とよかず)の子として生まれましたが、母は下級武士の家柄の側室であったことから、藩主になるとは本人も周囲の人たちも思っていなかったようです。

そのため容堂はあまり勉強もせず、若い頃からお酒ばかり飲んで遊んでいたといわれています。

 

 

しかし13代、14代の藩主があいついで死んでしまったことから15代藩主に取り立てられます。

その後は若い頃の不勉強を恥じて様々なことを学んで賢候(かしこい殿様)と言われるまでになりました。

 

 

幕府改革に乗り出すも井伊直弼と対立

容堂が藩主となった時代は、ペリーが来航して日本中が開国か攘夷か、幕府を重んじるか(佐幕派)幕府を倒すか(倒幕派)で揺れ動いた時代でした。

容堂は藩主となった事への恩義から、徳川幕府を重んじ、朝廷(天皇)と幕府が一緒になって国を立て直す、公武合体という考えを持っていました。

 

そのため薩摩藩主の島津斉彬(しまずなりあきら)、水戸藩の徳川斉昭(とくがわなりあき)らの有力大名と幕府の改革と建て直しに乗り出しています。

しかしその動きに反対する彦根藩の井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任するとその動きは封じられ、憤慨した容堂は藩主の座を降りて隠居してしまいます。

 

藩の実権を握り武市半平太を処刑

容堂が隠居して16代藩主豊範(とよのり)が藩主となった頃には、土佐藩内でも倒幕運動の機運が高まっていました。

 

その中心となったのが竹市半平太(たけちはんぺいた)率いる土佐勤王党と名乗るグループ。

背景には郷士として長く押さえつけられていた事への不満がありました。

 

土佐勤王党の勢力は重臣の吉田東洋を暗殺し、土佐藩の政治の実験を握るまでに大きくなっていきます。

 

そしてこの時に起こった大事件が「桜田門外の変」です。

この事件で容堂を隠居に追いやった井伊直弼は暗殺され、容堂は政治の舞台に舞い戻ることになります。

 

隠居の身でながら16代藩主豊範を差し置いて土佐藩の実験を握り、藩政の立て直し、すなわち、統幕に傾いていた土佐勤皇党を弾圧し、その中心人物である竹市半平太を切腹においやります。

 

 

しかし、再び政治の表舞台に立った容堂ですが、時代の流れはもはや止めがたく、薩摩と長州の間で薩長同盟が結ばれると、時代は倒幕の方向に大きく動き始めます。

 

容堂は公武合体を推進。

武力ではない改革を目指して薩摩との間で「薩土盟約」(さつとめいやく)を結び、動きに歯止めをかけようとしますが結局は武力討伐を重視することになり、容堂も時代の流れには逆らうことができませんでした。

 

 

後藤象二郎の進言で大政奉還を提案

武力による倒幕の流れが止められなくなった時、容堂の家臣・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、船中八策(せんちゅうはっさく)という案を進言し、これにより容堂は幕府に大政奉還を提案します。

 

この船中八策は、もともとは土佐を脱藩した坂本龍馬が考案したものといわれ、それを後藤象二郎が自分の考えだとして進言したといわれています。

 

このあたりは、司馬遼太郎の「竜馬が行く」や漫画の「おーい龍馬」あたりに詳しく書かれていますが、本当のところは小説の世界と現実が少し入り混じった話になってしまっているような気がします。

 

ちなみに、船中八策とはこんな内容でした。

 

  • 大政奉還
  • 上下両院の設置による議会政治
  • 有能な人材の政治への登用
  • 不平等条約の改定
  • 憲法制定
  • 海軍力の増強
  • 御親兵の設置
  • 金銀の交換レートの変更

 

すなわち、このような政策を徳川幕府が朝廷に国の政治を奉還しつつも実権を握って中心となって推し進める、徳川家を生かしながら公武合体によって国の変革を行うという考えだったようです。

 

晩年の山内容堂

容堂の進言によって大政奉還は実現しますが、あくまでも武力による倒幕を図ろうとする勢力の動きは止められませんでした。

薩摩は公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと王政復古の大号令を発し、鳥羽伏見の戦いをはじめとした旧幕府勢力との戦いに突入してしいきます。

 

容堂のめざした公武合体による日本の改革は結局は実現できませんでした。

 

その後、明治新政府の要職にもついた容堂でしたが、かつての家臣や民衆と同じくするのを嫌い、明治2年にはすべての職を辞職。

東京の箱崎にある徳川家の別邸を購入して、余生はひっそりと趣味とお酒を楽しんで過ごしたようです。

 

 

お酒の大好きな山内容堂の愛飲酒は「剣菱」

このように、幕末から明治維新の流れの中で重要な役割を演じた山内容堂ですが、お酒好きはどうやら本物だったようです。

彼の愛したお酒は「剣菱」というお酒で「剣菱にあらずんば、すなわち飲むべからず。」とまで言い切っていました。

 

 

 

お酒による逸話も多く、お酒が飲めない勝海舟に無理やり飲ませたり、朝廷との会議に酔って遅刻したり、会議の席でも何を言っているのかわからなかったなどの話が残されています。

 

色々な小説や逸話の中では、土佐の下級武士を迫害した意地悪なお殿様で描かれることが多い山内容堂ですが、実際はお酒好きで戦を嫌った名君だったのかもしれませんね?

 

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