甲斐の虎と呼ばれ、織田信長も恐れた武田信玄。
しかし、信長・家康も敵わなかった武田家は信玄死後から9年後、織田・徳川連合軍によって滅ぼされてしまいます。
武田家の軍記『甲陽軍艦』など古くから信玄の人気、崇拝ぶりとは対照的にその後を継いだ息子・勝頼は長篠の戦いの大敗北を筆頭に能力が伴わない可哀想な二代目として知られています。
では、勝頼が完全にダメダメで信玄がそれほどに神の如く優れた人物なのかというと、これもノーでしょう。
そもそも勝頼は当主となった時点でかなり不安定な状態からスタートだったので、武田家を再興しようとするのはかなり困難だったはず。
では、その原因はなんだったのかというと、他ならない信玄にあったのです。
今回は、戦国最強武田家がなんで滅亡してしまったのか、勝頼はどうしてそれを乗り越えることができなかったのか、その原因を信長の台頭や周囲の大名の情勢と絡めていきながら見ていきましょう。
積極的だった祖父と父の覇業、勝頼の重荷
戦国大名武田家の台頭は、信玄の父・信虎の代から始まります。
信虎はそれまで単なる一豪族に過ぎなかった甲斐武田氏の立場を引き上げ、甲斐の統一と今川氏との関係構築を行います。
しかし、信虎のやり方は一言で言えば強引。
そのため信虎に反発する国人や家臣も多く、彼らは嫡男の晴信(信玄)を担いで信虎を追放、晴信は若干21歳で当主となりました。
晴信は就任からずっと信濃の平定にこだわります。
その過程で信濃の名族・諏訪氏を滅ぼし、その娘(諏訪御両人)を側室に迎えます。
晴信とこの諏訪御両人の間に生まれたのが、4男の四郎つまり勝頼です。
晴信はさらに諏訪の分家である高遠頼継を滅ぼし、小笠原長時、村上義清といった信濃の最有力豪族の追放に成功します。
こうして信濃の支配権をほぼ全て獲得することに成功した晴信ですが、村上や小笠原は故郷を追い出されて越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ります。
景虎からすれば晴信は侵略者であり憎き敵、そのため平和を脅かす奴は許しておけない。
かの有名な川中島の戦いの一因は武田の強引なやり方に反発した上杉の怒りとも取ることができます。
実はかつて村上氏に勝った時も残酷な仕打ちを行い領民から反発を買ったこともある信玄、信玄の力の背景は今川義元中心の今川・武田・北条の三国同盟でした。
しかし1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、信玄は後を継いだ今川氏真が頼りないと見て一転今川と断絶、今川から自立した松平(徳川)家康、そしてそのボスである織田信長と組んで攻撃を開始します。
この時、信玄は今川征伐に反対だった長男・義信に切腹を命じてまで攻撃を決めています。
信玄の裏切りに怒ったのは北条氏康。
北条は今川を支持し武田を攻撃します。
しかし、この時は結局信玄も今川領を完全に獲得することは叶わず家康が一番得をすることとなりました。
それも束の間、室町将軍・足利義昭が反信長同盟を組むと今度は一転信玄は織田・徳川に反目、逆に頼りない浅井・朝倉と組んで西進しますが、信玄が途上で病死したことでやむなく中止、従軍していた勝頼が当主となりました。
しかし、勝頼は元々諏訪の姓を与えられていた分家の人間。
義信死後に武田嫡流がいなくなったことからやむなく勝頼を呼び戻して後継者としたのです。
『甲陽軍艦』によれば、この時の信玄の遺言は「3年間は影武者を立て、自分の死を隠せ。後継者は勝頼だが、勝頼は孫の信勝が成人するまでの代理である。」と言われていますが、『甲陽軍艦』は軍記であり史実の正確性に乏しいとされています。
いずれにせよ、公式ではこの時に信玄が隠居し勝頼が実質的に家督を継いだのです。
勝頼抜擢は当然のことでありながら譜代の家臣と勝頼はどこかうまくいかない。
それに信玄晩年の侵略行動によって武田は織田から信頼を無くしている。そうした齟齬がやがて大きな亀裂となっていくのです。
長篠の大敗と外交の失敗
勝頼が最初にしたのは織田・徳川への攻撃。
この時点で幕府・浅井・朝倉は全て勢力図から消滅、残った本願寺らとも連携はない状態です。
最も、北条との同盟は復活しており当面は織田・徳川・上杉との対決でした。
勝頼は一番に信玄ができなかった徳川討伐を行います。
中でも名城である高天神城を陥落させたことで武田の士気はあがります。
なぜなら、信玄でさえ陥落させられなかった城を落とせたのですから。
しかし長篠の戦いで大敗しその勢いも削がれます。
この時に武田は山県昌景、土屋昌続、馬場信房、真田信綱、真田昌輝、内藤昌豊、原昌胤ら数多くの重臣が戦死し信玄以来の戦力を一気に失います。
勝頼はそれでも諦めず、鉄砲の量産などを行い内政を整えます。
勝頼が武田再生に向けて動いているとき、越後では上杉謙信が病死し後継者争いが起こりました(御館の乱)。
また、信長も上杉や本願寺と事を構えるために勝頼と和議を結ぼうと画策していました。
しかし勝頼は織田と組む気はなく上杉を支持、さらに妻が北条氏政の妹だったことから北条出身の景虎(謙信の最初の名前をもらった養子)に味方しました。
一方、景勝(謙信の甥でこちらも養子)側が武田に和睦・協力を申し出ると上杉を担当していた跡部勝資や小山田信茂はこれを承諾し撤退。
これが原因で景勝側が一気に優位となった結果、景虎は戦死。
氏政は弟を殺された責任は裏切った勝頼にあるとして武田と断交、変わって信長・家康と同盟を結びました。
勝頼は景勝と同盟を結びますが、上杉はしばらく外に目を向ける余裕がなく、織田・徳川には実質武田のみで対抗することとなりました。
北条が徳川を抑えていない今、武田は一気に窮地に立たされたのです。
武田滅亡と甲斐武田氏の没落
勝頼は対北条のために常陸の佐竹義重とも組んでいました。
北条戦線は真田昌幸の活躍もあってどうにか北条の西進を防いでいます。
しかしやがて北条は駿河にまで侵攻、徳川もこれに同調し武田を攻撃します。
特に、家康が攻めた高天神城を勝頼が見殺しにしたことが勝頼への信頼をガタ落ちにしました。
勝頼と家臣達は日頃から馬が合いませんでしたが、織田・徳川はいよいよ本気で武田勢力への調略を進めていきます。
勝頼は正直なすすべがないと信長に和睦を再三主張していました。
しかしこれは全て黙殺され、信長は朝廷に対し「武田は賊敵なり」という命令を下させ、大義名分を得ます。
こうなると武田はもう終わりが見えてきました。
親族である木曽義昌、小山田信茂、穴山梅雪らが全員織田に降伏、まともに戦っているのは弟の仁科盛信のみ。
勝頼はこの事態に勝ち目がないことを悟ると、一族らのわずかな供回りを連れて先祖代々の菩提寺がある天目山を目指します。しかしそこで織田の追っ手に追いつかれ、とうとう自害してしまうのです。
信玄の子孫はその後二家が生き残っています。
一家は2男・信親の家で江戸時代は旗本として続きました。
もう一家は7男・信清の家で代々上杉景勝を藩祖とする会津米沢藩に家老として仕えました。
両家は現在も続いています。
信玄と勝頼、失敗した世代交代
平安末期から続く名門・武田氏の滅亡は、実は信玄の時代から既に避け得ないものだったのかもしれません。
信玄は元々領土拡大に目がない人物。
その野心は晩年になってようやく実りを得ようとしていました。
しかし世には同時に織田信長がいた時代、山奥である甲斐から出て足がかりを得ようと駿河奪取に身を削っている間、信長は都を制覇。
そして一旦信長が危機に陥ると信長から離反、命を削っての遠征中に信玄が病死します。
甲斐は本来地理的に京を抑えられるような場所ではありません、しかし桶狭間の戦いで上洛に光明が見えてきたために信玄はなりふり構わなくなります。
勝頼は信玄の西進作戦に対しどのように考えていたのでしょうか?
家督相続後すぐに駿河の奪還を考えていたことから、反対ではなかったでしょう。
しかし、その方針は信長が危機に遭っていることが必須条件。
それを活かしきる前に死んだ信玄、その方針をあくまで続けた結果武田の威信を全て失った勝頼。
信玄最大の失敗、それは織田に優位な立場にありながら自分の死をうまく使わず信長との関係を見直さなかったことかもしれません。
正直、当時の状況からして信長と信玄が真正面から戦えば信長が勝つわけがありません。
そのため信長の一番の希望は武田との戦いを避け徳川を盾とする間に近畿を制覇することでした。
信長はもし信玄が死んだと知ったらすぐに武田を討伐するに決まっている。
しかし信玄はその辺りの方策を何ら示さないまま死去、勝頼は織田という敵の強さを見誤ったまま長篠の戦いの大敗を迎えてしまいました。
いつの時代も世代交代は必ず批判や比較されながら行われるものですが、勝頼のかわいそうなところは、信玄が無駄に広げた大風呂敷を無理やり片付けなければならなかったことです。
この辺がスムーズにいかなかったところが、武田滅亡の遠因だったのかもしれませんね。