戦国時代、武士がコロコロ主君を変えるというのは決して珍しいことではありませんでした。
仕える主君を間違えたらそのまま死なんですから、当然といえば当然ですね。
「武士は二君に見えず」という言葉が現実になったのは江戸時代に儒学が行き届くようになってからです。
(武士は1人の主君に尽くすものだから2人の主君に出会うことはないという意味)
戦国時代に主君を変え続けた人物としては、藤堂高虎をおいて他に有名な人物はいないでしょう。
高虎は行く先々で活躍するチャンスを得ることができた数少ない人物です。
いつの時代も使える人材は引く手数多なのでしょうが、高虎のすごいところは実質コネなしの実力のみで出世していったことです。
高虎は決して武勇だけでなく多くのスキルを持つことで有名ですが、それはいったいどのように身に着けていったのでしょうか?
今回は、高虎が得てきたスキルと出会っていた数多くの主君、その関わり方についてみていきましょう。
藤堂高虎ってどんな人?
藤堂高虎(とうどうたかとら)
生没年 1556年~1630年
出身 近江国藤堂村(地主の家系)
仕えた武将(主君)
- 浅井長政
- 阿閉貞征
- 磯野員昌
- 津田信澄
- 豊臣秀長
- 豊臣秀保
- 豊臣秀吉
- 豊臣秀頼
- 徳川家康
- 徳川秀忠
- 徳川家光
特技:槍術、調略、城の築城
その他の特徴:身長190cm以上の大男。前線で戦い続けたことで身体の損傷・欠損が激しかった。
略年表
1556年 近江国藤堂村で生まれる
1570年 姉川の戦いで初陣
1573年 浅井長政滅亡、阿閉貞征に仕える
この間、阿閉貞征→磯野員昌→津田信澄と主君を変えるもいずれも短期で去っている。
1576年 羽柴(豊臣)秀長に仕え、中国攻めに参加
1585年 猿岡山城、和歌山城の築城
1595年 豊臣秀保の死で高野山に出家、しかしすぐに秀吉に呼び戻される
1598年 秀吉死去、以降は一貫して家康派として行動
1600年 関ケ原の功績で伊予今治藩の藩主となる
1608年 伊勢津藩の藩主に転封
1619年 後水尾天皇を恐喝し徳川和子の入内を要求
1630年 死去
高虎が仕えた主君を解説
浅井長政 =諸国を渡り歩く許可をくれる=
高虎が最初に仕えたのは地元の英雄・浅井長政です。
元々藤堂家は地元の小領主でしたが高虎の時代には土地さえも持っていませんでした。
高虎の初陣は兄と共に参加した姉川の戦いだといわれ槍働きで功を立てています。
小谷城の戦いにも参戦したといわれていますが、小谷城の戦いで浅井長政は滅亡し高虎は新たな士官先を探すこととなります。
長政は高虎に対し「彼は有能だからぜひ召し抱えてやってください」という感状を高虎に与えています。
元々農民クラスに過ぎない高虎でしたが、これによって仕官の自由を手に入れることができます。
阿閉貞征→磯野員昌→津田信澄
阿閉貞征、磯野員昌はいずれも旧浅井家臣で高虎がいた当時は織田家臣でした。
磯野員昌の下では80石という知行を得ることができ、少年の頃からの夢をかなえることができましたが、彼らとの間には問題があったらしくすぐに辞めてしまいます。
次に仕えたのは織田信長の甥・津田信澄です。
しかしこれもすぐに辞めてしまいます。
高虎はこの時期に家臣同士のけんかの仲裁や横暴な同僚の暗殺を命じられ、全てをそつなくこなしました。
しかし主君からしたらこれが面白くなかったらしく、苦労の割に高虎に対する恩賞はありませんでした。
高虎はこれであっさり見切りをつけ新しい仕官先を求めて出て行ってしまいます。
講談、浪曲『藤堂高虎 出世の白餅』ではこの時期の高虎を題材にこのような話があります。
阿閉貞征のところを1か月で辞めた時、三河まで流浪していた高虎は路銀を全て使い果たしてしまいました。
空腹のために立ち寄った餅屋で全ての餅を食べてしまった高虎は店主に素直に金がないことを告げた結果、その潔さに店主は路銀を恵んでくれました。
後年、高虎が藩主となり参勤交代で三河のこの餅屋に立ち寄った時に餅代を返しています。
豊臣秀長 =最も信頼したであろう主君=
高虎は仕方なく近江に帰国します。
浅井長政の滅亡後、近江は長浜城の羽柴秀吉が治めていましたが、元々武士ではない秀吉は譜代の家臣が少なく、長浜城主となってからは旧浅井家臣を自分の家臣や与力として召し抱えていました。
高虎もこれと同じ口で近江に仕官を求めましたが、この時に家臣を募集したのは留守の秀吉ではなく城代の弟・秀長でした。
それからしばらくして秀長隊も秀吉の中国攻めに加わりますが、高虎は浪人上がりの自分に破格の厚遇を与えてくれた秀長に対し、槍働きや苦手な帳簿整理なども含めてまさに魂を削る思いで尽くしました。
この頃から高虎は立場を決めかねている豪族を調略するなど、知略の働きも見せ始めています。
信長死後も高虎は各地で戦果を出していますが、特筆すべきは城郭建築に着手し始めたことです。
ある時高虎が聚楽第に家康の屋敷を作るよう命じられた際、高虎は渡された設計図に問題があったのでこれを独断で書き換え訂正部分は自費で建築しました。
完成後に家康が設計図と違うところを高虎に問うと、「独断で作り変えてしまったことは申し訳ございません、しかしもし三河殿に何かあったら主君の秀長、引いては関白殿下にまで責任を負わなければなりません。
もし気に入らないようでしたらこの場で討ち果たしてください」と答えます。
家康はこれに感心し高虎のことをしかと心に刻みます。
秀長は1591年に死去、後を継いだのは養子の秀保ですが秀保も早世します。
この時期、関白秀次の切腹事件が起こりますが、高虎はこの危機から逃れるために出家してしまいます。
徳川家康 =恩に報いて国の危機には高虎を指名=
高虎の才を惜しんでいた秀吉によって呼び戻された高虎は朝鮮出兵に参加し水軍を指揮します。
秀吉が亡くなる前から高虎は家康に接近します。
高虎は関ケ原の戦いでも黒田長政と共に脇坂安治・朽木元網・小川祐忠・赤座直保らを調略する活躍をし、今治藩12万石を追加されて20万石の大名となります。
大坂の陣では家臣を犠牲にしながらも攻撃の手を緩めずに先鋒を務め上げます。
家康はこの高虎の捨て身の献身を見て、「もし日本に大乱が起こったときは高虎を先鋒とせよ」と言ったと伝わります。
日本から戦がなくなった後も高虎は肥前熊本藩・讃岐高松藩・陸奥会津藩の藩政を後見するなど、内政でも大いに活躍して75才で亡くなるまであらゆる場面で活躍し続けました。
最終石高は伊勢津藩の32万3000石でした。
高虎の生き方は現代でも憧れの生き方?
高虎は手掛けた分野全てにおいて優秀な成績を収めています。
それに現代散々騒がれているステップアップの理想像を高虎は歩んで行っていると思います。
高虎は忠誠にうるさかった江戸時代の価値観では不忠者呼ばわりされることも多かったですが、それでも現代には藤堂高虎を尊敬する人は数多くいます。
戦国時代だからこそなしえた偉業なのかもしれませんが、彼は芸術を嗜み妻を大事にし部下には教訓と恩恵を施したために死を惜しまない忠臣が揃いました。
そして生涯自分を高めることをやめませんでした。これは時代に関係なく誰にも必要な精神でしょう。
著者自身、そんな境地にたどり着くのは遠い先になることでしょうが、いつかは高虎のように積み重ねてきたものを開花させれるよう日々あらゆることに取り掛かっていきたいものです。