あなたは自分の耳の痛い事を言ってくれる友達や上司を持っていますか?

激高されることを恐れずに相手が治すべきだと思ったことを率直に言ってくれる友人というのは、本当に大事にすべき存在です。

 

そういう意味では、今日の主人公である平手政秀のように、命をかけて主君に忠告をする家臣は何にも替え難いほどの価値があります。

 

織田信長という人物を知ってる方であれば彼が若い頃「うつけ(バカ者)」と呼ばれていたことを知っていますよね?

しかしこのうつけ者は、後に革新的な政策や戦闘を行い、戦国時代の台風の目になっていきます。

 

そして、うつけ者だった信長を覚醒させたのが平手政秀という人物。

政秀は信長が名将へと生まれ変わるきっかけを与えるだけでなく、朝廷や斎藤道三と交渉を行うなど、自身も非常に優秀な武将でした。

 

政秀は織田信秀の家臣でしたが、信長の世話役(傅役)になったため、常に信長の側で成長を見守ることになります。

 

織田信秀と信長を抱く土田御前の像
織田信秀と信長を抱く土田御前の像

 

ただ、政秀は信長の成長を最後まで見届けることなく、突然自害してその生涯を閉じます。

なぜ彼は死ななければならなかったのでしょうか?

そして、またその命懸けの忠告とはなんだったのか?

 

今回は信長の最大の理解者で、若かりし頃のうつけ者・信長を覚醒させたとされる平手政秀の半生を見ていきましょう。

 

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じい(平手政秀)の織田家でのお仕事内容!

平手政秀の若い頃や生い立ちなどは詳しいことはわかっていません。

生まれたのは1492年、平手政秀は志賀城の城主の家柄として生まれます。

 

後に少し触れますが、茶道や和歌に通じた教養人であることから、家柄としても比較的裕福な武家であったことなどが推察できます。

 

では、織田家で政秀はどんな仕事をしていたのでしょうか?

 

それをうかがわせるものが言継卿記という公家の記録の中に書かれています。

1533年、織田信秀が戦っていた織田達勝や織田藤佐衛門との講和をおこなうために公家の飛鳥井雅綱、ならびに山科言継を招いたときのことです。

 

この時、政秀はこの公家の二人組を朝食に招いたのですが、山科言継たちは接待の様子を「屋敷は立派で平手政秀のもてなしも素晴らしい」と絶賛しているのです。

当時の公家はプライドが高い教養人だったので、並大抵のもてなしで満足してもらえるはずはありません。

 

そう考えると、政秀は高い教養も兼ね備えた武将であったことがわかります。

 

信長が生まれると「傅役(もりやく)」という、いわゆる教育係のような役目を与えられ、信長の初陣の時の支度をしたり、その信長に同行したりと重要な仕事を数多くこなします。

 

これだけでも信秀からの政秀の信頼や期待というものが読み取れます。

それだけでなく政秀は2番家老でもあったためこの時期が政秀にとって一番忙しい時期だったかもしれません。

 

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公家を接待できるほどの教養人

少々話は前後するのですが、政秀の仕事は饗応や信長の傅役だけではありませんでした。

たとえば1543年にはその教養の深さから織田信秀の名代として朝廷へ内裏の修理料の4000貫を献上するなどの朝廷の交渉を一手に担い、信秀が斎藤道三と対立している隙を見計らって攻勢に出始めた清洲織田氏に対し、時間はかかったものの1548年に和睦を取りまとめたりしています。

 

さらに1548年には斎藤道三との和睦を成立させ信長と帰蝶との縁談話を道三に飲ませるなどなど外交上の功績を数多くあげています。

 

織田家にとっては外交の切り札のような存在。

戦場で槍を持って奮戦するというよりは、徳川家でいうと本多正信や石川数正のように外交や交渉ごとに力を発揮した官僚タイプの武将と言えます。

 

また、清須織田家との和睦に成功したあと、平手政秀が清洲織田の家老職であった坂井大膳、坂井甚介、河尻与一に当てた手紙の中に次のような一文があります。

「袖ひぢて結びし水のこほれるを春立つけふの風や解くらん」

 

これは古今和歌集に書かれている紀貫之の和歌で、冬に袖を濡らして凍った水も、きっと春の風が溶かしてくれるだろうという意味です。

 

政秀はそれまで冷え切っていた清洲織田氏との関係を袖の水になぞらえて、和睦した清洲織田氏との間に春のような穏やかな関係を持つことが出来て嬉しいと喜びの手紙を送ったのだと考えられます。

 

この手紙からも政秀の教養の深さや、また温厚な人格がにじみ出ているように感じてなりません。

和議を結んだ後にこんな和歌を送るなんて、カッコ良すぎるでしょ政秀さん!!

 

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政秀が自害した理由は?信長を諫めるためだったって本当?

政秀が外交に信長の教育にと忙しく日々を過ごしていた頃、主君であった織田信秀が亡くなります。

スムーズに行けば後継者は嫡男の信長となるのですが、問題はこの葬儀の際の話。

 

よく知られるように織田信長は信秀の葬儀にラフな格好(普段着)で登場。

そして仏前において抹香を投げつけるというなんともワイルドな行動に出ます。

 

この行動に葬儀に参列していた人たちはびっくり仰天し、もうひとりの信秀の弟である信行に注目が集まることになります。

奇しくも信秀の居城だった末森城はそのまま信行が城主となっており、信長は那古屋城城主だったので、しばらくはこの信長と信行の二元政治が敷かれるという微妙な時間が数年にわたって流れることになります。

 

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平手政秀が自ら切腹を行い、62歳で命を絶ったのはちょうどその頃、信秀が死んで1年弱くらいの時期でした。

『信長公記』という信長の生涯を書いた書物では、この切腹について「政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃し」たと書かれています。

 

これをもとに信長があまりに奔放で聞く耳を持たなかったため諌死(諌めるために切腹すること)したという通説になっていますが、もうちょっと複雑な事情があったようです。

 

実は平手政秀には3人の息子がいたのですがそのうちの長男、五郎右衛門の持っていた馬を信長が欲しがり、その馬を譲れといいます。

ですが五郎右衛門は「私は武士で馬がなければ戦えないのでお許しください」と拒否。

信長は諦めたようですが、よほどいい馬だったのか、それ以来政秀との関係がギクシャクして政秀は息子と信長の関係の板挟みになってしまい、精神的に追い詰められていきます。

 

  • 葬儀での信長の行動。
  • 信秀亡き後も相変わらずな信長。
  • 子供が原因での信長との不仲。

 

「信長がこんなふうに育ってしまったのは世話役である自分の責任・・・」

こんな風に、結局は様々なストレスが積み重なり自ら命を絶ってしまったのではないかと思われます。

 

どちらにしても信長の素行の悪さが政秀を自害させる原因になったことは間違いないようです。

教養があり、これまで常に責任感を持って仕事をこなしてきた政秀であれば確かに理解できる話ですよね。

 

「じいの想いを胸に!」政秀亡き後に信長が覚醒

もし、これが真実だとしたら、信長にとってはたかが馬一頭のことで信頼していた政秀が追い詰められて死んでしまったっていうことになりますからそれはもうショックですよね……。

 

政秀の切腹の真実がなんにせよ、信長の将来を案じてのことであるということは間違いないようで、信長はこの政秀の突然の死を非常に悲しんだと言われています。

 

信長の悲しみは「政秀寺(せいしゅうじ)」という政秀の名を冠した寺を建てその菩提を弔わせたことからもわかります。

本当に心から憎んでいたのであれば、こんなことをするはずがありません。

 

平手政秀の墓所の写真
平手政秀の墓所 画像引用:政秀寺公式ページ

 

また、真偽のほどは不明ですが、「信長は鷹狩りに行くたびに政秀への供え物として肉を投げ上げていた」という逸話もあります。

そして後年、他の家臣が『殿がこんなに偉大になったのに、平手殿は自刃するなんて早まったことをしましたね』と政秀を揶揄すると信長が激怒。

『俺がここまで来れたのは政秀のおかげだ! 秀を馬鹿にするな!』」と、信長が政秀のことを慕っていたからこそ生まれた逸話も。

 

幼い頃の信長は「じい」である政秀に大して、本当に迷惑ばかりかけていたのだと思います。

ただ、おじいちゃん子である人はよく分かると思いますが、幼い頃にお世話してもらったことのありがたみは成長してから初めて分かるものです。

 

自分のせいで「じい」を死なせてしまった。

そう考えた信長が、政秀の死をきっかけに武将として覚醒していったというのは十分に考えられる話だと思います。

 

戦国時代の比較的序盤に命を落とした老将の一人に過ぎないという平手政秀。

ですが彼もまたのちの名将を育てあげ、織田信長という名前の爪痕を残した人物の一人だといえるかもしれません。

 

政秀の菩提寺「政秀寺」は名古屋市中区栄にあります。

 

 

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