大阪冬の陣で大阪城の南側に真田丸という出城(砦のようなもの)を築いて徳川勢と対峙した真田信繁。
この真田丸は攻めにくく守りやすい造りになっていて、大阪城を包囲した徳川勢も容易には攻め込めませんでした。
そこで真田信繁が一計を案じて徳川勢の前田利常隊を誘い出し、それに連動して井伊直孝も攻め込んできます。
この時、真田幸村と井伊直孝の率いる赤備え同士での戦闘が繰り広げられました。
真田や井伊の赤備えって何?
そもそも赤備えとはどういったものなのでしょうか?
赤備えとは、兵士の甲冑や旗指物などの軍装を全て赤一色に統一した軍団の事。
武勇に優れた者のみが持つことを許された朱槍というものがある事からも分かるように、赤色(朱色)は優れた武将が使えるものでした。
また、赤一色で統一された軍団は戦場で大いに目立ち、兵の数を多く見せる効果もあったとされています。
つまり、赤色を軍装に使うことで他の軍団との差別化を図り、精強な軍団である事を示す意図がありました。
そして、その赤備えを自分の軍団の軍装に取り入れたのは、武田信玄の家臣であった飯富虎昌(おぶとらまさ)という人物。
飯富虎昌は信玄の下で戦功を上げた武将で、赤備えの元祖と言えます。
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赤備えの系譜
赤備えの元祖である飯富虎昌が謀反の意志があるとして武田信玄に粛清されると、弟の山県昌景(やまがたまさかげ)が赤備えを引き継ぎます。
この山県昌景の率いた赤備えが三方が原の戦いで徳川家康を完膚なきまでに叩きのめし、その勇猛さを天下に知らしめました。
後に織田信長によって武田家が滅ぼされ、主を失った武田家臣団を徳川家康が招き入れるのですが、それは三方が原で武田家臣団の勇猛さを目の当たりにしていたからだとされています。
そして、徳川家康は招き入れた武田家臣団を徳川家中でも武勇に優れていた武将・井伊直政の配下に組み込みます。
この時、山県昌景隊の赤備えの軍装も一緒に取り入れたとされています。
こうして武田の遺臣と赤備え、井伊直政の軍勢が合わさり井伊の赤鬼と恐れられた『井伊の赤備え』が誕生します。
真田の赤備え
一方、真田信繁(幸村)は祖父の真田幸隆の代から武田信玄に仕え、父の真田昌幸も武田家の家臣でした。
そのため幸村は、大坂の陣が始まる時に自軍の軍装を赤一色に統一し、真田の赤備えを作り上げます。
もちろん、赤備えの導入は士気を鼓舞するという目的もあったと思いますが、武田家の系譜を受け継ぐ幸村としてはそれ以上に飯富虎昌、山県昌景らの武田家の武勇に対する尊敬の念があったのかもしれません。
それは信繁という名前が、武田信玄の弟で名将として名高い武田信繁から取っている事でも分かります。
こうして真田信繁が大坂の陣で赤備えを率いたことで、武田家の流れを受け継ぐ信繁の赤備えと、武田家の遺臣を組み込んだ井伊家の赤備えの対決が行われることになります。
真田丸の攻防
真田丸は武田流築城術にみられる丸馬出しと呼ばれる作りで、半円形の堀を作りその両サイドから出撃できるようにした出丸です。
真田丸(丸馬出し)は、敵が出丸を取り巻く堀から侵入を試みると出丸の中から鉄砲を撃ちかけられ、横の入口に回り込んで侵入しようとすると城壁から鉄砲を撃ちかけられるという造りになっています。
この守る側が有利な真田丸に真田信繁は前田利常や赤備えを継承した井伊直孝を誘い出し、完膚なきまでに叩きのめしています。
この真田丸での赤備えの戦いは父親の真田昌幸譲りの智略を発揮した信繁の完勝という結果になりました。
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大阪夏の陣
大阪冬の陣では大敗を喫した井伊直孝でしたが、大阪夏の陣では先鋒を務め、木村重成、長宗我部盛親の軍を打ち破る活躍を見せています。
そして豊臣秀頼と淀の方を自害に追い込むなど冬の陣の失敗を取り戻すかのような働きを見せます。
一方、この大阪夏の陣で真田信繁が率いた赤備えは徳川家康本陣に決死の突撃を敢行し、家康の本陣に突入。
大将の居場所を示す馬印を倒し、家康に自害を覚悟させるなど、あと一歩のところまで家康を追いつめています。
しかし、運は家康に味方し、度重なる突撃で体力を消耗していた真田信繁は、松平忠直の武将に打ち取られてしまいます。
この大阪夏の陣での真田信繁の活躍は諸将にも語りつがれ、『真田日本一の兵(つわもの)』と称されています。
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三光神社の場所は宰相山。徳川方の前田宰相利常が真田と対峙するために陣取った山。