豊臣秀吉の死後、幼主・豊臣秀頼の後見を任された徳川家康はその立場を利用して露骨に天下への野心を明らかにします。

 

これに対し、会津にいた五大老の1人・上杉景勝は国許で家老の直江兼続に命じて領内諸城の補修を命じました。

しかしこれは文字通りの補修ではなく、明らかな戦闘準備でした。

 

家康は景勝の動きを危険視し、景勝に「諸城補修の理由を申し開きするために上洛せよ。」という命令を下しますが、景勝はこれに対して挑戦的な態度を示します。

 

家康はこれによって景勝を逆賊とみなして征伐を決行することとなるのです。

これが世にいう上杉征伐、或いは会津征伐と言われるものです。

 

五大老のうち、既に前田利家は亡くなっており残った毛利輝元は大坂城にて留守、宇喜多秀家は三成と共に行動している中で、景勝の存在は家康にとって遠方ながらも脅威でした。

 

しかし、いくら景勝が強いと言っても家康に勝てるとまで考えていたのでしょうか?

今回は上杉景勝の家臣・直江兼続が家康に送ったとされる直江状についてお話ししましょう。

 

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直江状の内容と現代語訳

会津征伐の決定打となったのは、直江兼続が記したと言われている直江状だといわれています。

 

あまりに格調高い文章のため、後世贋作であるとの説まで出たこの書状ですが、とにかく家康には景勝が怪しい行動を取っているとの報告が入っていたため、冒頭の通り景勝に京に来て説明をしなさいとの命令を送りました。

 

家康は西笑承兌(さいしょうじょうたい)という僧侶に「貴方に謀反の疑いがかかっているから上洛した方がいいですよ。」という書状を書かせ、伊奈昭綱(いなあきつな)と河村長門(かわむらながと)に書状を託しました。

 

1600年4月13日、2人は会津に到着して上杉家に書状と命令を届けました。

これに対し、4月14日付で直江兼続が上洛を拒絶する内容の書状を送りつけましたのですが、これが直江状の原本とされるものです。

 

ざっと内容を見てみると、

 

★東国についてそちらで色々と噂が流れているかと思いますが、内府(内大臣・家康)様が不審がられているのは残念なことです。しかしかつての関白秀次様のように京と伏見の間でも噂が流れたのですから、まして遠方の我が殿(景勝)が噂されてしまうのは仕方がない事です。どうか、ご不安になられないように。

 

★我が殿の上洛が遅れているとのことですが、一昨年に国替えがあったばかりの時期に上洛し、去年9月にようやく帰国できました。今年の正月に上洛したのではいつ国の政務を執ったらいいのですか?ここは雪国ゆえに10月から3月までの間は動くことも出来ません。もし疑いのようならば、国の者に声をかけて聞いてみて下され。我が殿に叛意あり等とは誰も申しません。

 

★我が殿に異心がないことは既にいくつもの書状にて申し開いたはず。同じことを何度もするのは無意味でしょう。

 

★太閤殿下が生きておられる頃から上杉は忠義者だと知られているではないですか。今さら内府様が疑うことはありません。

 

★我が殿に逆心ありと申す者こそ怪しいです。先にそちらを調べるのが筋でしょう。簡単に人の言う事を妄信するということは、内府様に裏表があるといっているようなものではないですか?

 

★そういえば、前田利長(利家の息子)はあなたの言う通りに従いましたね。何とご威光のあることでしょうか。(利長は当初反家康であったが、母のまつを人質に出して臣従を余儀なくされた)

 

★榊原康政(家康への取次担当だった)は上杉との公式の取次担当です。もし上杉に叛意があるならば、彼が内府様にお伝えするのが筋でしょう。しかしそれをせずに讒言をして上杉を陥れようとしているのです。内府様は榊原が忠義者か否かをよくよく判断されるべきでしょう。

 

★噂は上洛が遅れているから流れているにすぎません。

 

★上杉が武器を準備しているとのことですが、上方の武士は茶器を集めていることを趣味としているようですが、田舎武士は茶器の代わりに鉄砲や弓矢を集めることを趣味としています。

 

★道や舟橋を造って交通をよくすることは当然のこと、それを騒ぎ立てているのは堀監物(上杉の監察役だった堀直政のこと)だけです。彼は何もわかっていません。もしご不安なら使者を派遣して見分ください。

 

★逆心が無ければ上洛しろとの言い分は赤子と同じではありませんか。先日こちらの藤田信吉が出奔して江戸に渡って讒言をしたことは当家でも存じております。しかし、藤田を引き合わせて調べてくれないのなら、応じるつもりはありません。昨日まで逆心を持っていたの者が素知らぬ顔で上洛して褒美をもらうような世の中では敵いません。こう見ると、我が殿と内府様とどちらが正しいかは一目瞭然でしょう。

 

★謀反を騒ぎ立てる者は思慮分別がない者です。相手にする必要はありません。

 

★本当なら使者を立てて弁明をしたいところですが、藤田のような脱走者がいるようでは疑われに行くようなものです。きちんと調べて頂ければ、他意などないことはすぐにわかるでしょう。

 

★どうかありのままに我々の意見をお聞きください。

 

以上のように、何のことはない弁明が長々と書かれています。

 

しかし、先述の通り直江状には真贋論争があります。

その理由の1つとして、人物の表記が当時の慣例で言うとおかしな点があるという事が挙げられるそうです。

 

しかし、兼続が何らかの形で書状を出したというのは事実でしょう。

まさか、家康の所に使者を派遣したり自ら向かうことでおめおめ捕らえられてしまうわけにも行きませんしね。

 

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要するに、この時の書状で上杉は徳川が天下を取るために自分達を無理やり敵にしようとしていると言いたかったのです。

しかし、それを露骨に指摘することは当然家康に対して弓を引くこと。

 

こうして、家康が怒ったのか、しめしめとほくそ笑んだかはわかりませんが、上杉は徳川に従わないということが確認できました。

家康はこうして会津征伐を決行することとなるのです。

 

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直江兼続の戦い

景勝は領内の整備と称して、数々の人材を登用していきました。

これもただの叩き上げの役人を雇ったわけではありません。

 

その面子を見ると、前田利益(慶次郎)、上泉泰綱(剣豪・上泉信綱の孫)、山上道及(武勇で有名)、車斯忠(つなただ)等、いずれも武芸に優れた強者ばかりで、この強者を率いて出陣したのが、直江兼続でした。

 

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しかし、家康率いる討伐軍が進軍する途中に石田三成が毛利ら大大名を擁して挙兵したとの報告が届き、家康は小山会議での福島正則の発言を決め手に京へ転進することを決めます。

 

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こうして直接、家康と景勝が対決することは無くなりましたが、肩透かしを食らった形になった直江兼続は犬猿の仲であった最上義光の領地に攻め込むことを決めます。

 

この時に伊達政宗は最上軍の援軍として兵を派遣。

こうして関ヶ原から遠く離れた地では、上杉vs最上・伊達という戦が開戦されます。

 

しかし、兼次が長期戦になると予想していた関ヶ原の戦いが1日で終了し、西軍が大敗。

兼続は自害も考えたとされますが、友人でもある前田慶次に諫められて撤退を開始します。

 

この時の前田慶次の鬼神のような働きで撤退選は成功し、兼続は九死に一生を得たと言います。

 

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関ヶ原合戦後の上杉景勝と直江兼続

最後に、関ヶ原のその後についてみてみましょう。

1601年2月上旬、家康は結城秀康の取り成しで西笑承兌を通じて兼続に書状を送り、景勝に上洛して申し開きをする機会を与えました。

さすがの景勝も天下がほぼ決まってしまった後では家康に反抗する意味はありません。

 

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景勝、兼続は共に家康の元に向かい、先の敵対行為に対し謝罪の意を示しました。

この時景勝と兼続は、悪びれることなく堂々とした態度会見に臨んだため、家康は必要以上に上杉景勝に責めを負わすことが出来ず、上杉家の存続を許したとされます。

 

しかし、結果的に上杉家は120万石から米沢30万石にまで大減封されてしまいます。

 

石高が減るという事は当然収入も減ってしまうという事で、現代で言うと、120億円もあった大企業の収入が30億円にまで減ってしまうのと同じです。

 

こういった事態になると、家臣をリストラ(解雇)して財政の立て直しを図るのが普通ですが、景勝は家臣をリストラするようなことはしませんでした。

景勝は全家臣を米沢の地へ連れて行き、家臣たちも自分の給料が大幅に減ってしまうと分かっていながらも、上杉家に仕えることを誇りに思い、景勝に付いていきました。

 

この主君と家臣の信頼の深さが、上杉謙信から続く上杉家の強さの秘密だったように思います。

 

一方の兼続は、新たな土地の開墾を進めて治水事業などに尽力しましたが、実子である景明に先立たれてしまい、兼続の死をもって直江家は無嗣断絶となります。

 

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