真田信繁らと共に大坂5人衆に数えられた明石全登。

名前の読み方が少し難しいですが、『ぜんとう・てるずみ・たけのり』と読みます。

 

明石全登は明石景親の子として生まれ、宇喜多秀家に仕えた人物です。

宇喜多家では1599年にお家騒動がおこり、四人の家老が追放。

 

この時、明石全登が宇喜多家を取り仕切る筆頭家老に取り立てられています。

 

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関ヶ原の戦いに敗れた後の全登

明石全登の人生を大きく変えたのが関ヶ原の戦い。

この時、宇喜多秀家が西軍の副将となっていたため、筆頭家老である明石全登(てるずみ)も主君に従い戦場へと赴きます。

 

伏見城攻略や関ヶ原の前哨戦と言われる杭瀬川の戦いで武功を挙げた全登。

 

Akashi

 

関ヶ原の戦いでも宇喜多家先鋒を任され猛将として名を知られた福島正則隊と互角以上の戦いを繰り広げます。

しかし、小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れになり敗北。

 

この時、若かった秀家は小早川秀秋に対する怒りを露わにして、秀秋の陣に攻め込もうとしますが、これを思いとどまらせ、秀頼の居城である大坂へ落ち延びさせたのが明石全登だったとされています。

 

黒田官兵衛の比護

関ヶ原の戦いで敗れ、主君秀家を落ち延びさせた全登は宇喜多家本拠地である岡山まで退却。

しかし、岡山城は荒らされ東軍の追跡も迫っていたため、岡山に滞在することはできず、すぐに岡山城を後にしたとされています。

 

この時の全登の行動はハッキリとは分かっていませんが、黒田官兵衛(如水)の居城である中津城に匿われていたとされる説が有力です。

 

豊臣秀吉の天下統一を陰から支えた軍師として有名な黒田官兵衛。

明石全登が黒田官兵衛を頼ったのは、全登の信仰していた宗教に関係しているのではないかと思われます。

 

全登は宇喜多秀家の従兄弟詮家(あきいえ)がキリシタンであったこともあり、キリスト教に入信しています。

当時キリシタン大名はまだ少なく、高山右近や黒田官兵衛、大友宗麟、小西行長、蒲生氏郷などがキリシタンとして有名な人物でした。

キリシタンは結束力が高く互いの窮状を助け合っていたので、全登は黒田官兵衛を頼ったのではないかという説が一般的です。

 

しかし官兵衛が亡くなり息子の黒田長政が跡を継ぐとキリスト教の布教を全面的に禁止。

キリスト教の信仰を捨てることができなかった全登は、この地を去ることになります。

 

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大坂冬の陣へ参戦

黒田家を去った後の明石全登の動向はハッキリしていませんが、大坂冬の陣が始まると、大坂方の主力武将の中に全登の姿がありました。

一説によると、全登は徳川幕府が国内でキリスト教の信仰を全面的に認めてない方針を示しため、大坂方で参戦したとも言われています。

 

豊臣方は真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永と全登を大坂5人衆として、大部隊を率いる部隊長に任命します。

この5人衆の活躍で、大坂冬の陣は豊臣方優位に進んでいきますが、豊臣秀頼の母・淀の方などの豊臣方上層部が家康と和睦。

 

大坂城の堀を埋めるという条件を受け入れてしまい、大坂方は不利な状況に立たされます。

その翌年、和議が破られ再び戦闘が開始。

 

徳川方に防御施設を破壊されて防御力がなくなった大坂城を捨てて、5人衆は徳川軍迎撃の陣を敷きます。

しかし武将間での連携が上手くいかず、先鋒である後藤又兵衛が討ち死に。

 

真田信繁や毛利勝永の奮戦もむなしく、大坂方の敗北が決定的になります。

 

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徳川軍はその勢いで全登の陣に攻めかかってきますが、全登は冷静に対応し徳川方の軍勢を迎撃。

その後、天王寺・岡山の戦いでは家康本陣に突撃をかけるべく決死隊を結成しますが、家康の首を取る事はできませんでした。

 

明石全登のその後

明石全登は大坂夏の陣で最期を迎えたのか?

実は明石全登の大坂の夏の陣の後の消息については詳しい事は分かっていません。

 

合戦で討ち取れたという記録はなく、キリスト教では自ら命を断つという行為は禁止されているので、自害したという可能性もありません。

南蛮へ渡ったという説もあるのですが、もしかすると人知れず落ち延びて余生を全うしたという事もあるのかもしれません。

 

一説によると、東北に落ち延びて伊達政宗の世話になっていたとも伝えられています。

 

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