日本の歴史上、最大の天下分け目の戦いである『関ヶ原の戦い』。
石田三成が事実上のトップとなった西軍が挑むのは徳川家康が擁する東軍。
しかし、誰しもが長期戦を予想していた中、本戦はたったの半日で勝負が決してしまい、次の天下は家康のものと決まりました。
古くから、三成の敗因は家康に秀吉恩顧の大名との確執を突かれたとか、豊臣系の大名に三成が嫌われていたとか、とかく神君贔屓の江戸幕府の歴史観の中で殊更に豊臣の人間を悪く言うように差し向けられていました。
しかし、近年は三成も決して書類しか読めなかった軟弱な漢ではないことがわかってきています。
それに、研究もたびたび見直されてきた結果、関ヶ原の戦いは単純に三成の落ち度だけで決着がついたわけではないことが広く知られつつあるのです。
日本史マニアならある程度は知識があるであろう『関ヶ原の戦い』ですが、今回は石田三成がなぜ敗れたのかについて、著者なりに考察してみようと思います。
関ヶ原合戦時の戦力比較
日本全国が西軍、東軍のいずれかにすり寄る態度を取っていた関ヶ原の戦いですが、当然ですが全員が全員本戦に参加したわけではありません。
なので最初に関ヶ原本戦に参加した代表的な武将と動員兵力を確認してみましょう。
まずは西軍。
武将名 | 兵力 |
---|---|
宇喜多秀家 | 17200 |
小早川秀秋 | 15000 |
毛利秀元 | 15000 |
石田三成 | 6900 |
長宗我部盛親 | 6600 |
小西行長 | 4000 |
吉川広家 | 3000 |
大谷吉継 | 3000 |
島津義弘 | 1588 |
安国寺恵瓊 | 1800 |
長束正家 | 1500 |
その他を合わせた合計 | 約8万 |
Wikipedia参照
単純に兵力だけで見てみると、最大戦力だったのは五大老の1人・宇喜多秀家隊17220人です。
次いで小早川秀秋隊15000人と同じく毛利系の毛利秀元隊15000人。
総大将の石田三成本隊は6900人といった感じです。
続いて東軍。
武将名 | 兵力 |
---|---|
徳川家康 | 35000 |
浅野幸長 | 6500 |
福島正則 | 6000 |
黒田長政 | 5400 |
細川忠興 | 5000 |
池田輝政 | 4500 |
井伊直政 | 3600 |
松平忠吉 | 3000 |
その他を合わせた合計 | 約8万 |
Wikipedia参照
東軍の最大戦力は総大将である徳川家康本隊の35000人。
次に五奉行の筆頭・浅野長政の息子である浅野幸長隊が6500人。
福島正則隊が6000人、黒田官兵衛の息子・黒田長政隊が5400人、妻を三成に殺されて怒りに燃える細川忠興隊が5000人と豊臣恩顧の大名が主力となっています。
徳川軍は家康の本体とは別に、四天王の先鋒・井伊直政隊が3600人、家康の四男でこの時が初陣の松平忠吉隊が3000人、真田信幸の舅である本多忠勝隊が500人という構成でした。
この時、徳川の主力部隊は秀忠が率いていましたが、主力部隊を抜きにしてもこれだけの兵数を動員できるというのは、家康の力が群を抜いていたという事が良く分かります。
ぱっと兵数だけ見ると、両軍とも約8万とほぼ互角。
ただ、西軍は東軍に先んじて関ヶ原に到着しており、三成本隊が笹尾山、宇喜多隊が天満山、小早川隊が松尾山、毛利・吉川らが南宮山といった高所を全て制圧していたため、布陣的には西軍が圧倒的有利でした。
逆に東軍にとっては正面を三成ら西軍の主戦力、背後を毛利・吉川らに押さえられているという、圧倒的不利な状況にありました。
当初、家康の計画では秀忠率いる徳川主力部隊が関ヶ原で家康本隊に合流する予定でした。
しかし、真田昌幸と信繁親子の抵抗と悪天候によって秀忠軍が関ヶ原に到着できない状況。
形勢は三成が優勢であったことは、この時点では疑いない事実だったようです。
西軍の本当の戦力
しかし、布陣が完璧でも実際に軍勢が可動しなければ効果はありません。
戦中の西軍の様子をもう一度よく見てみましょう。
注目すべきは、西軍の中には裏切りや開戦後もまるで行動しなかった部隊があったことです。
寝返り
その最たる例は、松尾山の小早川秀秋。
彼の裏切りによって西軍の敗北が決定的となったのは有名な話ですよね?
関連記事→小早川秀秋の死因は大谷吉継の呪い?関ヶ原での裏切りの理由!!
秀秋はかねてから家康や黒田長政から東軍に内応するように持ち掛けられていましたが、東軍の調略の手は秀秋だけに伸びていたのではなく、脇坂・朽木・赤座・小川という少数兵力の大名も取り込んでいました。
結局、西軍は約2万という兵力が至近距離で寝返ってしまう事で大打撃を受けてしまいます。
寝返った武将 | 兵力 |
小早川秀秋 | 15000 |
小川祐忠 | 2100 |
脇坂安治 | 990 |
赤座直保 | 600 |
朽木元綱 | 600 |
不戦
関ヶ原の戦いでは裏切りはしないまでも、積極的に戦いに参加しない武将もいました。
その代表となるのが、勇猛で知られる薩摩の島津義弘です。
関ヶ原の開戦前、島津義弘は家康の命に従い、伏見城の守備に向かいました。
しかし、先に伏見城に入っていた家康の家臣・鳥居元忠に入城を拒否されてしまい、渋々西軍に付いています。
それだけならまだ良かったかもしれませんが、当時の島津家は本国にいた兄で当主の義久と大坂で豊臣と親睦を深めていた義弘との間に軋轢があり、義弘が率いていたのは大坂にいた僅かな供回りだけでした。
そのため、三成ら西軍の首脳陣にも存在を軽視されていたと言われています。
この待遇に不満を持った義弘は本戦で一切軍を動かそうとはせず、戦の真っただ中で三成が自ら説得に赴いてもそれを承諾はしませんでした。
そして、不戦を決め込んでいたもう1つの大きな勢力が東軍の背後を押さえていた毛利軍と吉川軍です。
吉川軍を率いていた吉川広家は親家康派の武将でした。
そのため、大坂城に籠る西軍の名目上の総大将で彼の主君である毛利輝元にも家康に従うように勧めていたのですが、広家の知らないところで三成・恵瓊が輝元を総大将に任命してしまったため、毛利は西軍につくことを余儀なくされたのです。
関連記事→毛利輝元は本当に無能なのか?再評価される日はいつ?
広家はこの事態の中で黒田長政と通じて「毛利と西軍は無縁のため、戦後も所領安堵を保証して欲しい」との密約を交わします。
本戦では毛利秀元・安国寺恵瓊が積極的に東軍に攻撃を仕掛けようとしましたが、広家は毛利隊の進軍を阻み、結果として毛利は関ヶ原では動かぬ存在となってしまいました。
結局、秀元を大将とする現地の毛利軍と大坂城にいる輝元の毛利本軍は全くの無傷のまま本国に帰還することとなるのです。
そして、毛利軍や吉川軍が動かなかったため、長宗我部盛親や安国寺恵瓊も軍を進めることができませんでした。
不戦の武将 | 兵力 |
毛利秀元 | 15000 |
吉川広家 | 3000 |
安国寺恵瓊 | 1800 |
長宗我部盛親 | 6600 |
長束正家 | 1500 |
島津義弘 | 1588 |
こうしてみると、西軍の中には内通者が多く、機能していた部隊は実質的に41660人+α。
三成は結果的に圧倒的に不利な状況になっていたことがわかります。
裏切り頻発は三成の人望のなさか?
小早川・脇坂・小川・赤座・朽木の裏切り、そして毛利・吉川の傍観によって優勢を崩されてしまい敗れてしまった三成。
一般的には石田三成に人望がなかったため、裏切りが頻発して西軍は敗れたと言われます。
しかし、関ケ原の裏切りは果たして三成1人の責任として簡単に結論づけられることなのでしょうか?
先述したように、家康はかねてから諸大名に対し自分に付くように工作を進めていました。
それに応じたか否かによって、戦後の諸大名の処遇は大きく異なりました。
例えば、秀秋と安治はかねてから東軍に付くことを表明していたことから戦後も減封はされずに所領は安堵されましたが、流れに従ったに過ぎない赤座・朽木・小川は不義の者として減封を余儀なくされました。
また、秀秋は秀吉の生前から不当な理由で領地を減らされたり罰せられたりしていましたが、これを理不尽に思った徳川家康が救いの手を差し伸べたことがありました。
つまり秀秋は家康に対して大きな恩があった訳ですね。
そのため、彼らの裏切りは直接的には家康が長年築いた裏工作や政治権力によって引き起こされたものであると考えた方が自然でしょう。
そして、家康と三成では人望以上に、政治的な権力や官位の差がそのまま実力差となっていたのは間違いありません。
三成の官位は従五位下・治部少輔に過ぎませんでした。
そのため、諸大名を糾合ために大大名である宇喜多・毛利の力を借りたのです。
対して家康の官位は正二位・内大臣、関白・太政大臣がいない限り武家の中では事実上のトップです。
戦後に所領・官位を安堵するといっても、三成と家康とどちらがより説得力があるかと言えば明白です。
そんな状況でありながら、三成が家康に対して反旗を翻すことができたのは彼の意見を正当だとする者が数多くいたからに他なりません。
そのため、決して三成に人望がなかったからだとは言い切れないと感じます。
関連記事→真田安房守や左衛門佐・伊豆守といった戦国武将の官位について!!
三成は本当に戦下手だったのか?
三成は一般的に戦下手とされる評価を下されています。
しかし、それはあくまで彼が主に関与した戦が尽く負け戦であったことから下された結果論に過ぎません。
実際、賤ヶ岳の戦いでは清正らと共に先陣を切って敵将を討ち取っています。
それ以前、つまり信長存命時から三成は秀吉の中国征伐に従っており戦闘経験は当時の武将の平均的な水準にはあったのでしょう。
むしろ虎退治で有名な清正の方も小牧長久手以降はしばらく内政を中心とした業務に取り組んでおり、決して武将=戦しかしないというファンタジー的な話で割り切れることはないようです。
さて、本題の関ヶ原に入ると、西軍は実質半分しか戦闘に参加していませんでした。
そんな中で宇喜多・小西・大谷といった主要メンバーに混じって三成も劣勢の中奮戦しています。
大将ということもあって、三成本隊は東軍の黒田長政、加藤嘉明、田中吉政、細川忠興らに幾度となく攻められますが、その都度、島左近らの活躍によってこれを撃退しています。
家臣の活躍もさることながら、三成自身も後の記録では「腰抜けと評されているはずの三成だが、その奮戦する様は獅子奮迅であった。」と記されており、東軍が三成を侮っていたために思わぬ苦戦を強いられていたことがわかります。
しかし、秀秋らの裏切りによって結局は敗北を喫してしまい、最期は処刑されてしまいました。
そして、家康の三成への評価も決して低くありません。
処刑される運命にあった三成に対し、家康は「勝敗は古今東西世の常であり、敗北することは少しも恥ではない。」といい敗戦によって決して彼をけなすことはありませんでした。
三成は最期まで再起するつもりでいましたが、それを処刑人に咎められても決して潔い態度を崩しませんでした。家康は彼のこの態度に大将の道を知っていると感服していました。
そもそも、彼の意見に従って糾合した大名も決して生半可な勢力ではありません。
戦略という観点から見ても、三成の行動は結果として家康にとっては正面切って立ち向かわなければならない『脅威』となっていたことから、三成は戦下手という評価は大局的に見てもいわれなき讒言と言わざるを得ないでしょう。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
戦が1つ起こると、それは決して個々の領地の切り貼りでは済まない政治的な問題を含んできます。
三成はやっていることだけでいえば家康に匹敵する行動を取れていたのかもしれません。
しかし、相手が家康であったこと、西軍が内部崩壊していたことから三成は勝利を掴むことはできなかったのです。
家康は長い時間をかけて諸大名とは各が違う存在となっていました。
それは秀吉が死んだ時点で家康に逆らえるような大名がいなくなることを意味します。
三成はこれに対して唯一正面から反抗した、次代に取り残された存在だったのでしょうか?
時代を動かすのは、案外こうした人物であることは多いです。