名将・上杉謙信の跡を継ぎ上杉家の当主となった上杉景勝。

感情を表に出すことがなく、家臣の前ではほとんど笑うことがなかったという、無骨な戦国武将として知られています。

 

かぶき者として有名な前田慶次も景勝の威厳の前に、たじろいでしまったという逸話があるほどです。

 

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上杉景勝とは?

上杉景勝は1555年に坂戸城主・長尾政景の次男として生まれ、叔父である上杉謙信の養子となります。

そして、春日山城で謙信から思想や戦術の教育を受けながら育ちます。

 

その後、謙信が亡くなると家中を分断するお家騒動(御館の乱)が勃発。

景勝は厳しい戦いを家老である直江兼続と共に乗り越え、御館の乱を収束させます。

 

そして名実ともに上杉謙信の跡を継いで、越後の国主として厳しい戦国時代を生き残っていきます。

 

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今回は寡黙で知られる上杉景勝の評価と、関ヶ原の戦いの裏で起こった長谷堂城の戦いを紹介していきます。

 

上杉景勝の性格や特徴

性格は寡黙で剛毅、律儀で果断であったとされており、生涯あまり感情を表に出さなかったと伝えられる上杉景勝。

景勝の寡黙さは、軍神と言われた上杉謙信に自己を近づけるために行った行動ではないかと思います。

 

当主である景勝がこういった姿勢を貫いていたので、上杉軍の軍律はとても厳しく無駄口をたたく兵は一人もいなかったとされてます。

家中統制も謙信生存時よりもうまくいっており、反乱を起こした領主は謙信の時代よりも圧倒的に少なく、御館の乱以降、目立った反乱は起きていません。

 

また、景勝は決断力もあり、外交面でも毛利家に次ぐ大大名と言われる中で、いち早く時勢を見抜き豊臣秀吉と手を結んでいます。

このような面を見ると、私は景勝は反乱が多い家臣団をうまく統制し、戦国乱世を生き抜いた非凡な大名であると感じます。

 

前田慶次が恐れた威厳の持ち主

当時の景勝の威厳が垣間見えるエピソードを紹介します。

豊臣家に臣従した景勝が秀吉に呼ばれ、名だたる大名と共に殿中で宴会を催していました。

 

その中に戦国一のかぶき者(派手な格好で常識外れの行動をとる人)として有名な前田慶次の姿もありました。

 

その宴の中で前田慶次は、猿面をつけ扇をふりながら面白おかしく踊りながら大名の膝の上に座るという悪ふざけを行なっていました。

しかし、景勝の膝にだけ座ることができず、後に「天下広しといえども真の主となりえるのは上杉景勝をおいてほかにいない」と評価したとされています。

 

前田慶次が膝の上に乗らなかったのは、景勝の威風に満ちた雰囲気が犯しがたかったためと語っています。

かぶき者として前田利家を散々てこずらせた慶次を大人しくさせた景勝が寡黙で剛毅な雰囲気をまとっていたと推察するに十分な逸話です。

 

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上杉軍の強さの秘密

自らを厳しく律することで上杉謙信に近づき、最強の上杉軍を束ねていた上杉景勝の最大の戦いは1600年の関が原の合戦時に起きた長谷堂城の戦いではないかと思います。

 

上杉家は石田三成と懇意であったことから徳川家康との対立が深まっていました。

景勝は領国である会津諸城の改修を行い、同時期に新たらしい本拠地の築城を家臣に命じています。

 

家康から領内の諸城改築の申し開きのため上洛せよとの命令が届いても拒否。

この時、直江兼続はが家康に送り付けた直江状が痛快な文章として有名です。

 

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召還命令を拒否された家康は、秀頼の代理で諸大名を引き連れ会津征伐を開始。

景勝は徳川家康相手にも臆することなく、神指原に会津征伐軍迎撃の陣を敷き、会津討伐軍を待ち受けます。

 

しかし、石田三成が西で挙兵をしたため会津征伐は中止。

上杉軍は追撃を行わず、東軍に与した伊達政宗や最上義光を征伐すべく北へ進軍を開始します。

 

直江兼続を総大将に最上家の諸城を陥落させた上杉軍。

残るは長谷堂城と山形城のみと戦いは優勢でしたが、関ヶ原の戦いが1日で終り、三成が関ヶ原で敗北したため上杉軍は退却を余儀なくされます。

 

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しかし上杉軍は、この退却戦で天下にその勇猛さを知らしめる事となります。

 

撤退を始める上杉軍に山形城から最上義光が追撃の軍を出すと、直江兼続や水原親憲、前田慶次が殿(しんがり)となり、退却戦を開始します。

※殿(しんがり)とは軍勢の最後尾で敵と戦いながら退却する最も過酷なポジション。

 

両軍は激闘を繰り広げますが、直江兼続の水際だった采配と親憲、慶次の獅子奮迅の働きにより無事に米沢に帰還します。

この時、最上義光は「西で敗軍の報を受け取ったはずである兼続は全く動揺せず、謙信以来の上杉軍の強さを見せつけられた」と称賛しています。

 

(ちなみに伊達政宗は「最上の兵が弱いので上杉軍を逃がした・・・。」とぼやいたとされています。)

 

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この上杉軍の強さは謙信以来の軍法が守られていることもありますが、景勝が自己を謙信に近づける努力を怠らずに寡黙で厳格でいることで兵士達も厳格さを失わずにしっかりとした統制が作り上げたことが一番の理由ではないかと私は思っています。

 

晩年の景勝

関が原の合戦の後、景勝は徳川に降伏し、会津120万石から米沢30万石に減封されます。

これは現代で言えば会社の収入が4分の1になるのと同じ事。

 

普通なら家臣をリストラするところですが、この時、景勝は家臣を一人もリストラすることなく米沢へ連れて行っています。

そして、家臣たちも給料がもらえなくても上杉家の家臣である事を誇りに思って景勝について行ったと伝わっているので、景勝が作り上げた上杉家の結束は相当なものだったと思います。

 

上杉景勝は無口で不器用な性格。

しかし、それが1つの魅力で男が惹かれるカリスマ性を持った人だったのではないかと思います。

 

そして後に起きる大坂の陣でも上杉軍は活躍。

鴨野の戦いで上杉軍は12000の大坂方の軍勢を打ち破り鴨野の陣を占拠する軍功を立てています。

 

しかも景勝は、家康から堀尾忠晴と交代して軍勢を休ませるよう指示が届いた時、

「武士の家に生まれて先陣を他家と争い、朝から身を粉にして奮戦してきた場をいくら上意とはいえ譲ることはできない」

 

と家康の命を拒否したという逸話もあります。

この後、景勝は藩政を2代目の定勝に譲り、財政難などを乗り越えながら米沢藩は幕末まで続く藩となります。

 

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