真田幸村の兄である真田信之(信幸)。

信之は大坂夏の陣で幸村が亡くなった後も幕府の一大名として生き続けました。

 

大河ドラマや昨今の歴史マニアが増えたことで信之の存在感は幸村と並んで際立つものとなりましたが、信之は何と93歳まで生きた長寿で、後進からも一目置かれる存在となっていました。

 

彼がここまで長い間活躍できた理由。

それは、苦労が絶えなかった後半生が背後にあったようです。

 

今回は戦国以降も生き残った戦国大名の、苦労が絶えない後半生と信之の本当の性格について見てみましょう。

 

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徳川政権下ではどんな立場だったの?

徳川と信之の縁は、若かりし日に上田城で家康をコテンパンにやっつけた信之を本多忠勝が見込んで小松姫を嫁がせたことから始まります。

 

豊臣政権下で既に信之は昌幸とは別に官位・領地をもらっており、独立した大名としての地位を築いていました。

実家と完全に決別することとなったのは関ヶ原の戦いの時で、彼は昌幸・信繁が籠る上田城の討伐部隊の一員として加わっていました。

 

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この戦いでは信之のいた徳川軍が敗北し、昌幸や幸村の上田城サイドに軍配が上がりましたが、関ヶ原本戦で東軍が勝ったことにより、逆に信之が昌幸から没収した上田95000石の大名となっています。

 

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上田藩とはいっても、上田城は戦後まもなく家康の命令で破却を命じられていたため、実際は沼田城を居城としていました。

それに昌幸・信繁と家康に煮え湯を飲ませ続けた人物を親族に持つ信之は、徳川家臣の中でも苦しい立場にあったと思われます。

 

それでも彼は幽閉されている昌幸たちに仕送りをすることを怠らず、父親の恩義に報い続けました。

弟の幸村が大坂の陣に参戦すると、体調がすぐれないという理由で息子2人を代理として派遣します。

 

これは本当に体調がすぐれなかったのか、それとも弟と戦う事を嫌ったからなのか・・?

その理由は分かっていませんが、結局、信之は幸村の最期を見届けることはできませんでした。

 

実はこの時、息子が陣中で裏切りを疑われているので、もしかすると自分が出陣することで余計に徳川方に怪しまれるという危機感があったために身を引いたのかもしれませんね。

 

信之は有能な藩主だったの?

信之が上田を相続した頃、上田は戦禍と浅間山の噴火によって荒廃しており、幾度となく天災にも遭っていました。

そんな中、信之は用水の開削や年貢の減免などを行い、上田の再興に苦闘しています。

 

大坂の陣ののち、信之は上田から松代藩に転封となります。

この時の有名な話として、信之は先祖伝来の上田を引き離されたことに怒り、後任の仙石忠政に引き渡すべき検知資料などの書類をすべて焼き払い、上田城の灯篭や植木をすべて撤去したという逸話があります。

 

しかし、これはどうも本当の話ではないようで、実際は仙石忠政に正確に資料が届いています。

信之が移封された松代という場所は、川中島の戦いの際に祖父の幸隆(昌幸の父親)が参戦したゆかりのある城。

これはむしろ、真田家にとっても喜ばしいことだったのかもしれません。

 

秀忠も信之には信頼を置いており、親藩・譜代(徳川家に近しい家臣)が治めてきた松代を真田に譲ったことは忠義への恩返しだと解釈していいでしょう。

 

信之は上田藩時代から倹約に努め、藩政再興に力を注ぎました。

これによって信之は20万両という財産を貯金しており、これをそのまま松代藩へと引き継ぎました。

そのため、信之が松代藩の藩主であった頃は財政的にも非常に豊かな藩として繁栄していようです。

 

家臣に対する厳しい態度や質素倹約のスタンスをみると、信幸は藩主として国を治めていくのに十分な器があったと言えるのではないでしょうか?

少なくとも、徳川家に対立した父と弟がいながらも、将軍である徳川秀忠の信頼を勝ち取っているというのはとても大きな功績です。

 

時代が過ぎると、真田家は嫡流が絶えてしまう事態に遭遇します。

その時は徳川家や井伊家から養子を取ることになるのですが、信之は本多忠勝の娘である小松姫を妻にしているので、真田家は外様大名でありながら譜代扱いを受けていたようです。

 

真田氏の繁栄は全て信之から始まると言っても過言ではないのでしょうか?

 

石田三成からの書状を隠していた真意は?

松代藩には、真田家が関ヶ原以来ずっと守り続けていた藤四郎吉光の長持(ながもち=木製の収納箱)が伝えられています。

信之が寝ずの番をつけて守ってきた家宝でした。

 

この長持ちは徳川時代の間は家老ですら開けることが禁止されていたのですが、明治時代になってようやく中身が日の目を見ることになりました。

 

長持ちの中に入っていたもの・・・。

それはしばらくの間、徳川家康から拝領した刀だと思われていたのですが、それは石田三成が真田昌幸宛てに送った書状などでした。

 

書状の内容は、三成が昌幸に対して相談せずに挙兵したことを謝り、大坂にいる人質が無事でいること、会津の上杉景勝と上田の真田昌幸のパイプがあればまだ家康にも勝てるかもしれないというものでした。

 

わざわざ信之がこの書状を残していた真意は何だったのでしょうか?

 

おそらく、信之は内心では父や弟と共に三成に付きたかったのではないではないかと思います。

彼は三成の義の意志に共感し本当ならそれにそのまま従って行動したかったでしょう。

 

しかし、家のため、時代のために徳川に付かざるを得なくなった信之は、三成への思いを忘れないために書状をわざと残したのではないかと伝えられています。

 

信之は何歳まで生きてどんな最後だったのか?

1622年(元和8年)、二代将軍秀忠によって上田藩から松代藩に移封された信幸はおよそ30年の間藩主として君臨し続けます。

 

そして高齢になった信之は後継者について考えます。

信之には3人の息子がいて、順当にいけば長男の信吉が家督を継ぐはずでした。

 

しかし信吉は信之に先立って1634年(寛永11年)に江戸屋敷でこの世を去ってしまいます。

 

その後、信吉の子供・熊之助を沼田城主とし、信之の次男の信政を後見人としますが、熊之助もまもなく早世。

信政が熊之助の領地をそのまま受け継ぎました。

 

しかし、その信政も信之よりも早く亡くなってしまい、真田家は後継者を巡ってお家騒動が起こってしまします。

 

最終的には、信之が幼い藩主の後見人になる事で決着しますが、この時、信之は93歳という高齢でした。

これからしばらく後、信之は息を引き取るのですが、90歳を超えるまで生きるというのは、『人間50年~』と歌われたこの時代ではとても珍しい事です。

 

高齢になろうとも、最後の最後まで職務を全うした責任感の強い真面目な男。

これが一般的な信之のイメージに繋がっているのかもしれません。

 

また、信之は次男の信政との間に確執があったとされています。

戦や政治の腕は確かなものがあった信之ですが、自分の子供たちと信頼関係を築くことはあまり上手くなかったのかもしれません。

 



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