「春はあけぼの~」でおなじみの随筆『枕草子』。
この枕草子の作者が清少納言です。
随筆(随筆)というのは心に浮かんだ事や、見たり聞いたりしたことなどを思うままに書いた文章のこと。
現代でいうと、思ったことをTwitterやインスタグラムに投稿しているような感覚に似ているかもしれませんね。
平安時代の女流文学の一翼を担った彼女の実像に迫るには、やはり『枕草子』を読むことが一番の近道。
という訳で今回は、清少納言の性格や紫式部との関係、なぜ枕草子を書いたのかなどを詳しくみていきましょう。
清少納言ってどんな人なの?
清少納言 |
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【生没年】966年~1025年 享年59歳くらい |
「清少納言」という名前の由来は、彼女の姓が「清原」であり、身内に「少納言」という位の人がいたからだとされています。
つまり「清原さん家の少納言」という意味で、名前の区切り(呼び方)としては「せいしょうなごん」ではなく、「せい・しょうなごん」ということになります。
では、清少納言の本名は何というのでしょうか?
これははっきりと分かっていないのですが、本名は「清原諾子(きよはらのなぎこ)」ではないかと言われています。
父親は有名歌人で「梨壺の五人」の一人として知られる清原元輔(きよはらのもとすけ)。
曾祖父は『古今和歌集』の代表的歌人・清原深養父(きよはらのふかやぶ)です。
清原家は中・下級貴族ですが、和歌の名門で代々文化人として政治、学問に貢献した家柄。
清少納言は娘時代から漢学も学んでおり、高い教養を備えた女性だったようです。
一条天皇の中宮(のち皇后)となった藤原定子のサロンに出仕しています。
そして、陰謀や策略など闇が渦巻く平安貴族社会の中で、あえて華やかな部分だけを切り取って『枕草子』を執筆。
その知性と性格で水を得た魚のように宮仕えした清少納言は、鋭い観察力で人々の共感を勝ち得ます。
清少納言は定子サロンのPRに徹した「冴えた眼を持つ天才エース女房」といえるかもしれませんね。
随筆『枕草子』ってどんな内容なの?
平安時代中期から現代にまで読み継がれてきた、清少納言の随筆『枕草子』。
鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』と並んで日本三大随筆に称され、海外でも読まれる名作です。
枕草子は清少納言の見聞や体験、感想などが鋭い感性と知的なウイットによって書かれたもの。
最初にもお伝えしたように、随筆とは心に浮かんだ事や、見たり聞いたりしたことなどを思うままに書いた文章のことです。
内容を簡単に紹介すると
「春は夜明けがいいよね~。」
「夏は夜だよね~、ホタルが飛んでるなんて最高じゃん!」
「美しいものと言ったらカルガモの卵や梅の花に積もった雪だよね~」
「男性が来るのを一晩中待ってたら寝てしまい、気づいたら昼だった時って辛いよね・・・」
という感じ。
今でいうと、SNSをしてる感じに近いですかね・・・?
内容は全部で300段ほどあり、それぞれの段は主に下記のどれかにあてはまります。
- 「類想的章段」物事や事柄について語った「ものづくし」。「うつくしきもの」など
- 「随想章段」日常生活や四季の自然を観察したもの。「春はあけぼの」など
- 「回想章段」作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷での思い出を綴ったもの
枕草子という名前の由来
では、なぜ「枕草子」という名前がつけられたのでしょうか?
これにはいくつかの説がるのですが、あるとき内大臣の藤原伊周(ふじわらのこれちか)から、妹である中宮定子に白紙を綴った冊子が献上されました。
何を書くか思案中の定子に対し、清少納言は冗談で「枕にしたい」と言いました。
すると定子は「ならば受け取りなさい」と、当時大変高価だった白紙の冊子を清少納言に与えます。
そして、その冊子に書かれた随筆だったため、『枕草子』と呼ばれるようになったと言われています。
ただ肝心の「枕」の意味については、
- 分厚いので、「枕にして寝てしまいたい」の意味
- 「歌枕」の意味
- 人に見せない「草子や備忘録」の意味
など解釈が分かれて、ハッキリした理由は良く分かってないようです。
どうして清少納言は『枕草子』を書いたの?
では、どうして清少納言は枕草子を執筆することになったのでしょうか?
この理由については諸説ありますが、下記の2つが主な理由ではないかとされています。
定子に注目を集めるために書いたという説
1つ目は話題性のある作品を書き、一条天皇の后である定子の素晴らしさをアピールしたかったという説。
定子サロンの女房たちの仕事の一つは、定子の政治的立場を強くするため、宮廷の人々の注目を集めることでした。
そのため、高価な冊子を与えられた清少納言は、エースとしてのメンツにかけても話題性のある作品を書いて定子の素晴らしさをアピールしたかったという訳です。
定子やその家族の安らぎを願った説
2つ目は苦境にある定子に読ませて彼女を元気づけるため。
そして、亡くなった彼女の華やかな記憶を残された家族と偲び、彼女を鎮魂するために書いたのではないかという説です。
『枕草子』の執筆時期は「定子が政治的力関係の中で窮地に陥った時期」、「定子の死後」の2つに分れています。
そのため、定子が生きている時は彼女を元気づけるため。
定子が亡くなった後は、彼女の華やかな記憶を残された家族と偲ぶためではないかと言われています。
『枕草子』の魅力とは?
『枕草子』は、当時の政治的背景を理解することで、そこに交錯する作者と登場人物の切ない思いを深読みすることのできる作品です。
しかし、そんな知識なしでも面白い点が魅力でもあります。
「をかし」の文学
『枕草子』は「をかし」の文学と呼ばれています。
軽妙で明るい筆致、知的で洗練された視点によって、「きれい!」「可愛い!」「新発見!」なことをピックアップし、「いとをかし(とっても素敵)」としたためる清少納言。
その着眼点のフレッシュさを素直に楽しめる作品です。
多くの共感を誘う着眼点
特に類想的章段では、作者の挙げる「上品なもの」「憎らしいもの」など、平安時代も現代も人が考えることは同じであることを思い知らされます。
「説教するお坊さんはハンサムに限るわ」「どんな身分の男も、若いうちはスリムのほうがいいでしょ」など、あけすけな本音を書くところも痛快そのもの。
現代に生きる私たちまで大いに共感できるのです。
実在の豪華セレブも続々登場
リアルな随筆ですから一条天皇、中宮定子、藤原道長やその他貴公子たちなど、登場人物は実在の人ばかり。
歴史上の有名人たちの姿にも惹かれます。
『枕草子』が決して語らぬ闇と悲しみ
清少納言が過ごした宮廷での華やかな時期も、いつしか定子の政治的苦境と共に陰りを見せ、定子の死で終了します。
しかし、彼女はあることを決めていました。
作品の中には決して中宮定子のネガティブな面を描かないことを。
『枕草子』は彼女が慕う中宮定子に捧げるものです。
そのため、作品の中では定子はいつも明るく、気高く、賢く輝いていなければなりませんでした。
そこに定子の「闇」や「悲しみ」は必要なかったのです。
『枕草子』は、苦い現実の中で清少納言の堅い決意によって生み出されたものでした。
単なる女房の「宮仕え体験エッセイ」ではなく、明らかな意図を持った作品だったのです。
清少納言はどんな性格だった?
『枕草子』の中には人間・清少納言のいろんな面が表現されています。
そこで、文章から伺える清少納言の性格を考察してみましょう。
基本は明るく外交的
得意の漢詩の知識を駆使して、主人の定子や殿上人たちとの気の利いた応酬が得意な清少納言。
「高慢」「自慢気」であると感じる人もいるようですが、彼女にはトップ女房として定子サロンの教養・文化レベルの高さを宣伝する使命がありました。
文中に見られる痛烈な批評さえも陰湿になることはなく、社交的で明るいシャープな女性でした。
実はコンプレックスがあって内気な部分も
平安美人の条件の一つは長い黒髪。
実は清少納言は癖毛で、まっすぐに伸びない自分の髪には劣等感を持っていました。
「かもじ」と呼ばれるエクステンションも使用していたほどです。
自分の容姿への自信のなさは時に彼女を少女のようにシャイにさせ、宮仕え初日には恥ずかしさの余り半泣きに・・。
主人である定子の顔を見ることもできない様子も描かれています。
和歌は嫌い?
和歌の名門の家に生まれたプレッシャーか、和歌を詠むのを避け、主に男性が嗜むとされた漢詩を好みました。
主人の定子はそんな彼女を理解して和歌を詠まなくても良いというお許しを出していたほど。
とはいえ、彼女の和歌は勅撰集、百人一首にも選ばれ、清少納言は中古三十六歌仙に選ばれるほどの女流歌人なのですが・・。
紫式部のライバルだったの?
一条天皇の皇后・定子に仕えた清少納言と、中宮・彰子に仕えた紫式部は対立の構図の中にありました。
しかし、彼女と紫式部との直接対決はありません。
紫式部が出仕開始したのは、清少納言が定子の死をもって宮廷を去ったあとなのです。
彼女が紫式部について言及した記録は残っていません。
清少納言がモテた秘訣
実は宮仕えの前にすでに離婚歴のある子持ちだった清少納言。
しかし、前夫・橘則光(たちばなののりみつ)も『枕草子』に登場しますが、2人の会話にはドロドロしたところは一切ありません。
外見にコンプレックスがあったとはいえ、明るく、頭の良い花形女房の彼女は、殿上人の貴公子たちにモテました。
あの藤原道長、宮廷女性のあこがれの的・藤原斉信(ただのぶ)、朝廷一の有能官僚・藤原行成らとのやりとりが『枕草子』に残されています。
貴公子たちとの華やかな交流は、主人である定子のステータスを上げるための彼女の使命でもあったのです。
ただ一人、風流なプレイボーイ・藤原実方(さねかた)とは「人には知らせで絶えぬ仲(人知れず長く続いている関係)」だったと『後拾遺和歌集』に記録されています。
『枕草子』に描かれていないからこそ、本物の恋だったのかもしれません。
華やかな宮廷で多くの男性と交流しながらも、魔性の女や、恋多き女のイメージのない清少納言。
サバサバしたところが彼女の魅力のヒミツでもありそうです。
清少納言は主人の定子を失った後は仕事を辞し、藤原道長の誘いも断り、宮廷に戻ることはありませんでした。
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