朝廷の暴政に耐えかねて、民のために立ち上がったとされる平将門。

しかし非業の死を遂げた将門には、古くからその首塚に触れようとする者は容赦なく祟りが降りかかると言われ、実際に数々の実例は将門の呪いとまで言われていました。

意外とよくわかっていない将門の反乱の原因ですが、彼はどのような理由で朝廷に反乱を起こしたのでしょうか?

そして死後1000年経っても恐れられる首塚の正体とは?

今回は平安貴族に武士の力を見せつけた平将門にスポットを当ててみましょう。

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平将門と反乱

【名前】 平将門(たいらまさかど)

【氏族】 桓武平氏(桓武天皇から数えて5代目、高孫)

【出身】 下総国佐倉?(千葉県佐倉市)

【特技】 武芸、乗馬

【発明品】 反った日本刀(騎馬状態でも使うため)

将門の祖先は平安京遷都をした桓武天皇ですが、将門の代には貴族を守る武士となっていました。

平安時代中期の武士といえば決して朝廷内での地位が高いわけではなく、中央での出世は到底望める立場ではありません。

当時は中央での出世を諦めた武士が地方に出向して独自の基盤を築き再起を図ろうとする動きが活発でしたが、将門も12年間宮仕えをした後に関東に出向します。

ここから反乱にいたるまでの経緯は諸説ありますが、どうも同じく関東に出向していた平氏や源氏との領地争いが最も確かな説だとされています。

将門は自分を攻め滅ぼそうとした源氏や平氏の有力者(親類縁者を含む)と戦い、僅か3年足らずで関東にてその権威を明らかにしていきます。

朝廷は将門の躍進に驚き謀反ではないかと疑いますが、将門は逆に朝廷に自分の正統性といざこざの原因は経基だと訴えると、朝廷は将門を認め経基を誣告罪(他人を嘘の罪で訴えた)で罷免します。

この時、将門と共に経基と敵対した興世王(おきよおう)の上司として新たに百済貞連(くだらのさだつら)という人物が興世王のいる武蔵国の国司として赴任してきます。

しかし貞連と興世王は不仲であり、興世王は将門のいる下総に逃れます。

また常陸国で罪を犯した藤原玄明(ふじわらはるあき)という人物が一族郎党を連れて将門を頼ってくると、当然常陸国司は玄明の引き渡しを要求してきます。

しかし将門はこれを拒否し、常陸国司に戦を仕掛けます。

一見すると言うことを聞かない将門側が全般的に悪いように見えますが、実はその裏では将門と敵対していた同じ桓武平氏ではとこにあたる平貞盛(平清盛の祖先)が裏で糸を引いていました。

将門と貞盛は本来は特に敵対していませんでしたが、将門が貞盛の父を殺したことから憎んでいたのです。

さて、戦は将門が圧勝し国司は将門に国司の証である印綬を没収されてしまいます。

これによって将門は朝廷に反抗する立場に立たざるを得なくなります。

こうして関東諸国を次々に獲得した将門は京の天皇に対抗して「新皇」と名乗り、新政権の樹立を宣言します。

実はこの頃西国でも藤原純友が海賊を率いて反乱を起こしており、朝廷は両者の反乱に追われていました。

教科書ではこれを当時の年号を取って「承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)」と呼んでいますが、朝廷では将門や純友を恐れて毎晩呪殺の祈祷を行っていました。

即位を宣言したはいいですが、いざ将門が行動を起こそうとすると足取りは非常に重かったです。

なぜなら、将門が最初に行ったのは逃亡した貞盛の捜索で手元にあったはずの部下の軍勢をほとんど帰国させていたからです。

こうして将門サイドがもたついている間に貞盛は逃げ切り、戦略家として知られる藤原秀郷(奥州藤原氏の祖)の助けを借りて将門に対抗しようと準備していました。

そして本格的に戦が始まると秀郷を相手にした将門の部下はたちまち敗れ去り、将門は本拠地に逃げて討伐軍を誘い出そうとします。

しかし将門の性急な政権樹立に人心は思いのほか離れており、将門は援軍の到着が間に合わないまま僅か400の兵で貞盛や秀郷の軍勢を迎え撃たなくてはなりませんでした。

決戦の時、将門は追い風に乗って貞盛らの軍勢を瞬く間に打ち破り形勢は有利になりますが、風向きが変わると逆に将門が不利になり、どこかから飛んできた矢が将門の額に命中しあえなく戦死してしまいました。

こうして朝廷も恐れた平将門の新政権はたった2か月で崩壊してしまったのです。

首塚と呪いの正体

将門の首は間もなく平安京に送られ晒し首とされます。

ちなみに現時点では日本史上初めて晒し首になったのは将門だと言われています。

しかし伝説では将門の首は京にて晒されて3日後、突如大笑いをして自ら発光し、武蔵国まで飛び去ったとされています。

そして降り立ったのが現在の東京都千代田区のオフィス街の中にひっそりと建っている首塚の場所。

鎌倉時代になって関東で疫病や天変地異が頻繁に起きると、これが将門の祟りだとされて神田明神に祀られます。

戦国時代になると関東を起点に朝廷と戦った将門は太田道灌・北条氏網・徳川家康らによって戦勝祈願の神とされます。

しかし明治維新を迎え尊王論が重視されると再び将門の呪いというキーワードが持ち上がります。

関東大震災の際に当時東京都千代田区に遭った大蔵省が全焼すると再建築のために将門の塚を掘り起こし盗掘で何もないのを確認するとそこに仮省庁を建てます。

それから間もなく当時の大蔵大臣をはじめ建設関係者や現職の職員が立て続けに亡くなり、省庁内が動揺します。

昭和2年、動揺を抑えるために首塚の側に「南無阿弥陀仏」と書かれた石碑を建ててことは治まります。

その後、太平洋戦争に負けGHQが日本にやってくると、GHQは将門の首塚がある場所に駐車場を建てようと思い首塚を壊そうとします。

そこでもブルドーザーが横転し運転手が死亡する事故が起こり、GHQもそれ以降は将門に触れるようなことは二度としませんでした。

その後明治時代後期から始まっていた平将門への名誉回復運動の功績もあり、戦後再び英雄との見方が強まります。

そして現在、将門は大河ドラマの影響を受けて英雄として扱われながらもより客観的かつ公平に評価されるのを待つ状態であり、日本史の中でも評価が分かれる人物となっています。

将門はその存在の大きさから当時の政権によって一種のプロバガンダとして利用され続けてきた存在と言えるでしょう。

現在、東京都千代田区にある首塚には保存協会が建てた記念碑があり、そこには民のために中央の腐敗した政治に立ち向かった英雄としての将門が紹介されています。

関東の民にとってはやはり長きにわたって慕われ続けた英雄なのです。



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