普段使っている10円玉に描かれている平等院鳳凰堂。
この鳳凰堂は平安時代、藤原頼通によって建立された寺院です。
では、何故10円玉に平等院鳳凰堂が描かれているのでしょうか?
今回は10円玉に鳳凰堂が描かれた理由と藤原頼通という人物について解説します。
藤原頼通の概要
名前 藤原頼通(ふじわらのよりみち)
生没年 992年~1074年
官位 摂政→関白・太政大臣
性格 愛妻家 温和→派手好き、加齢により変化
趣味 日記、和歌
藤原頼通は992年、藤原道長の子として生まれました。
当時の道長は絶大な権力を持っていて、頼通も若くして道長の権力掌握に協力させられています。
元々は兄の影に隠れているような性格だったとされていますが、26歳で道長の後を継ぎいで摂政となり、後に関白に任じられています。
しかし頼通が関白になっても、実権は道長が握っていたため、頼道は思い通りに政治を行うことができず、重要なことは全て道長に相談していたようです。
道長が頼通を公衆の面前で罵倒したという話もあるので、関白とは言っても、実際には権力を持たず、道長の思い通りに動かされていたといったほうが良いのかもしれません。
また、頼通には正妻がいましたが、道長が強制的に他の女性を連れてきて娶らせようとしたという逸話もあります。
最終的に頼通が体を病むほど拒否したことで取りやめになりますが、何事も自分の思い通りにしたい道長の存命中は、頼通も苦労をしたようです。
若年で関白に就任して以来、およそ60年にもわたって権力を掌握し続けた頼通は1074年に83歳で亡くなります。
頼通は政治のリーダーであると同時に文学・芸術の保護者であり、自らも歌を詠むなど、芸術家、文化人としての一面も持ち合わせています。
平等院鳳凰堂を立てた理由
奈良時代に仏教が伝わって以来、日本では独自の発達を遂げていました。
当時、仏教の教えには末法思想というものがありました。仏教には、正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)・末法(まっぽう)という三時の時期があると考えられています。
末法思想を超簡単に表現するとこんな感じ。
- 正法→釈迦の入滅してもその教えや実践が生きている時期
- 像法→悟りを開く者が存在しなくなる時期
- 末法→釈迦の死後1500~2000年経ち、世が乱れてしまう時期
頼通が生きた時代とは、この末法にあたると考えられていました。
実際に都では災害や戦乱が続き、社会全体を通じて末法思想に満たされていました。
そこで貴族達はせめて来世で極楽浄土に行きたいという気持ちを持ち、それを実現するために仏にすがろうと考えました。
こうして作られたのが平等院鳳凰堂です。
平等院の不思議な形には理由があるの?
平等院は藤原道長時代までは邸宅でしたが、頼道は自分が隠居することを考えて、この邸宅を寺院として改築します。
これが平等院鳳凰堂の始まりで、この寺社全体を平等院といい、鳳凰堂はその中に置かれた阿弥陀如来像の堂を指します。
ちなみに、鳳凰堂は後世の呼び名で、本来の名は阿弥陀如来堂(あみだにょらいどう)と言います。
鳳凰堂は中堂と東西に並ぶ翼廊に分かれ、池の中島に東を向いて建てられました。
中堂には本尊があり、翼廊は中堂に向かってL字に曲がるように設計されています。
平等院鳳凰堂はこの翼廊が特徴的な建物ですが、平等院の公式ページによると、阿弥陀如来の宮殿をモチーフにしたデザインというだけで、実用性があってこの作りになっている訳ではないそうです。
頼通は平等院鳳凰堂を建立して、現世に極楽浄土を表現したかったのでしょうね。
10円玉の裏に平等院が描かれているのはなぜ?
では、何故平等院鳳凰堂が10円玉に描かれているのでしょうか?
京都は古くから戦乱の土地でもありました。
そのため多くの寺院・宝典がそれに巻き込まれて焼失しています。
実は、平等院も戦の被害を受けて大半の楼閣が焼かれてしまっています。
しかし、そんな中でも鳳凰堂は難を逃れて現存しています。
この平安時代から残る日本の特徴的なの建築物を守っていきたいという願いが込められて、昭和26年に現行の10円玉が発行された際に平等院鳳凰堂が選ばれています。
まとめ
芸術品・建築物というのはその時代を象徴するとても重要なものです。
なぜなら創建者にとってはこれが最大の表現方法であったからです。
これだけ科学が発達した現代でも芸術を嗜む感性を持った我々人間は、やはりかなり特殊な生き物なのかもしれません。
しかし個人的には芸術が発達する時というのは世の中がちょっとおかしい不穏な時期を迎えた時だと思うのです。
それは頼通の頃と同じように、現実世界の中に空想というか頭の中の世界を実現させそこに住もうという思いが現れているからです。
平等院鳳凰堂からは、暗い影が見え始めた摂関政治と世の中に対するせめてもの反抗のような気持ちが見えるような気もします。