著者は現在中国にて多くの外国人と暮らしていますが、彼らとの交流の中で日本は世界的に見ても宗教に対してかなり自由な国だと思います。
しいて言うなら仏教・神道が日本の宗教ということになるかもしれませんが、他の国との違いは日本では僧侶の結婚が許されているところですね。
さて、日本の仏教も流派が数多くありますが、その中で最も知名度が高い流派の開祖は空海でしょう。
日本の仏教は奈良時代に中国・唐から流入してきて日本が奈良・平安時代を経て独自の仏教が醸成されて徐々に完成されてきましたが、空海はちょうどその流れの筆頭にありました。
空海が開いたのは真言宗ですが、同じ時代に生きた天台宗の開祖・最澄と並んで空海の名声は現在まで多くの人に語り継がれています。
ところで、空海と最澄は交流がありながらも最終的には不仲になったとか・・。
いったいそこにはどのような理由があったのでしょうか。
今回は、真言宗の開祖・空海の生涯と天台宗の開祖・最澄との間に何が起こったのか、彼らの主張の違いはどこにあるのか、そして今も生き続けているとされる空海の真実について見ていきましょう。
空海のを簡単に紹介
【法名】 空海(くうかい)
【俗名】 佐伯真魚(さえきまお)
【別名】 弘法大使(こうぼうたいし)
【生没年】 774年~835年
【流派】 真言宗
【生誕地】 讃岐国
【寺院】 高野山金剛峰寺など
【特技】 書道
空海は讃岐国(香川県)の郡司である佐伯田公(さえきのたぎみ)の息子として生まれました。
讃岐佐伯氏といえば当時の讃岐では名の通った一族のようで、空海も幼少期から平城京にて官僚になるために勉学に励んでいました。
彼が特に専門としていたのが、中国から伝わった経書。
19歳頃になって大学を卒業した空海ですが、彼はそのまま山林に籠って修行を始め、父から約束されていた官僚への道を切ってひたすら仏教思想の学問に没頭していきます。
この頃から梵字を読んだりするようにもなり、やがて悟りの境地に達します。
伝説では現在の高知県室戸岬御厨人窟(みくろど)にて修行をしているときに、口に虚空蔵菩薩の化身が入ってきて悟りを開き、そこから見えるのは「空」と「海」だけだったので「空海」と名を改めたといわれています。
その後、空海は遣唐使の1人として中国へ留学。
この時にはライバルと言われる最澄の姿もありました。
数々の危機を乗り越えて唐の都・長安にたどり着いた空海は密教を学ぶために梵語の経書を与えらえます。
そして長安青龍寺の恵果と出会宇野ですが、恵果は空海を一目見てすぐに奥義伝授を開始したとされています。
やがて奥義を体得した空海は遍照金剛(へんじょうこんごう)という灌頂名をもらいます。
その年のうちに師匠である恵果が亡くなると、空海は全弟子を代表して碑文を起草しています。
師匠を見送ると空海は帰途に就き、そこで仏教以外の土木技術・薬学をも学んで日本にたどり着きます。
日本に戻った空海は嵯峨天皇に協力して大祈祷を行ったり、経典の執筆に励んだり、満濃池(日本最大の農業用ため池)の回収に務めたりと各地で足跡を残しました。
やがて高野山にて金剛峰寺に入った空海は晩年になってから文字通り身を削るような苦行を重ねて密教の確立に尽力。
835年の最期の直前まで修行を続け入滅しています。
最澄との関係
最澄は空海よりも年上で先輩に当たり、遣唐使になった際に知り合ったとされています。
最澄はこの時既にかなり名の知られた僧でしたが、空海は未だ無名の一僧侶に過ぎませんでした。
実は空海の留学は本来20年という長期間を朝廷から命じられていましたが、師匠の死という理由もあって空海は僅か2年で留学を切り上げ帰国しています。
しかしこれは当時の規定では犯罪であったため、空海は京へは入らず太宰府で数年間謹慎のような生活を送っていました。
そこで助け舟を出したのが最澄だといわれています。
最澄と空海はこれ以降手紙のやり取りをするなどして交流を深めていました。
仏教に関しては最澄が先輩でしたが、中国で学んだ密教に関しては空海が最澄よりも長じていました。
ところが、2人は主張の違いから対立するように。
正直仏教の解説はかなり専門的なのでとてもざっくり説明すると、最澄の説は法華経の教義を主体として釈迦如来(いわゆるお釈迦様)を本尊としていたのに対し、空海の説は密教の教えを強調し大日如来を全知全能の宇宙空間の体現者として本尊としていました。
これによって2人の仏教への解釈は全く異なり、結果決別することとなるのです。
この他には、最澄が空海から経典の注釈を借りようとして断られたこと、最澄の弟子が空海に寝返ってしまったこと等が挙げられていますが、最澄はとてもまじめな人物でとにかく熱心に空海に対応していました。
しかし空海はだんだんと交流の回数を減らし、最後は弟子に最澄の教義を盗んできなさいと言わんばかりにスパイとして送り込んで結局自分の元に取り戻したというやや節操にかけた行動をとっています。
要するに彼らは現代の大学教授の学閥と同じように互いの主張を曲げないまま引くに引けなくなり、交流を絶ってしまったようです。
最澄に送ったとされる手紙の内容
空海が最澄に送った手紙は『風信帖(ふうしんじょう)』と言われ、空海の書の中では最高傑作だといわれています。
合計3通ありますが、その中でも1通目の冒頭句を取ってこの名をつけられました。
1通目は空海が最澄の比叡山には行けないことを謝り、仏教の根本問題について深く語り合おうと約束することを記しています。
2通目はこのところ法要が忙しく手紙を見る時間もないから用事がすんだらまた手紙を見るからとりあえず使者に手紙を託しますよ、との伝言を記しています。
3通目は別件で最澄に頼んでいたお香と贈り物を受け取ったから、次の法要が終わったら比叡山に向かいたい、前にお願いしていたお経の借り入れは、今別の人に貸しているからそれが終わったら次は必ずお貸ししますとの内容が記されています。
最澄はこの他にもとにかく空海から「あれを貸して、これを貸して」と次々に経典の借り入れを要求しています。
さすがの最澄も少し空海が鬱陶しく感じたのでしょうか・・・?
高野山奥の院に今も空海が生き続けているとされる理由
空海は入滅に際し、遺体は火葬されたとするのが一般的です。
しかし高野山では未だに高野山奥の院の霊廟にて禅を続けていると信じられています。
ある文献では空海入滅後100年ほど経ったある時に「空海の遺体は四十九日を過ぎた後も生きているのと同じようだった」と記されています。
また平安末期に見られた『今昔物語』には空海の遺体の頭髪などを切りそろえ、衣服を整えたとする記述もあります。
空海には死後も諸国行脚を続けていたとする伝説もあったりしますが、やはりこれは伝説の域を出ないもので、正式にはどうも荼毘に付されたため現在そのお姿を拝むことはできないようです。
奥の院にはどうして沢山の戦国武将のお墓があるの?
高野山には戦国武将を含め、多くの有名人のお墓が立ち並んでいます。
戦国武将が出家する時も、多くは高野山を選んで出家していますね。
しかし、お墓というと少し語弊があるので正確に言うと「供養塔」です。
特に戦国末期から江戸初期にかけての人物は高野山に供養塔が集中していますが、これは一種の流行のようなものもありました。
高野山は平安末期から代々武士と結んでその命脈を保っていました。
そういえば、信長が焼き討ちをした比叡山は高野山とは対立関係にありましたね。
まあ、これは関係ないにしても戦国時代は特に成仏したら極楽浄土に行きたいという思想が強く流行っていました。
そのため、その教義を謳っていた高野山はまさにメッカです。
こうして、戦国時代には信仰を求めて死後に高野山を仰いだとするのが一般的です。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
日頃、宗教の開祖について聞くとだいたい偉業については簡単に知っていてもその性格についてはよく知らない場合が多いです。
しかし空海とて人の子、最澄とのやり取りは年相応に意地を張ったりズルをしようとしたりとある意味人間味に溢れていますね。
こうした伝説と史実とはどれだけの離れているのか?
仏教の教えも素晴らしいですが、真実を暴くという観点から聖人を見ると必死に自分を飾った等身大のおじさんの姿が見えてなんだかおもしろいです。