後藤又兵衛は黒田官兵衛・長政親子の下で活躍した知勇兼備の武将。

関ヶ原の戦いや朝鮮出兵で武功を上げますが、やがて主君である長政と不和になり黒田家を出奔します。

 

浪人のとなった又兵衛は徳川家康と敵対する豊臣家に迎えられ、大坂夏の陣を最後の舞台に活躍します。

 

又兵衛はその豪胆な性格から地元でも根強い人気を誇る武将で、その人生も波乱に満ちています。

大坂の陣では真田幸村と共に大坂方の中核を担い、大坂城五人衆の中でも中心的な立場になっていきます。

 

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関ヶ原での活躍

徳川家康と石田三成が争った関ヶ原の戦い。

天下分け目の戦いと呼ばれたこの戦いで黒田長政軍は石田三成の軍勢と戦います。

 

後藤又兵衛もこの戦いに従軍し、その中で石田方の大橋掃部(おおはしかもん)という槍の名手を一騎打ちにて討ち取り、この戦功によって後藤又兵衛は1万6000石で大隈城主となっています。

 

戦場での武功は数知れない又兵衛、ただその豪胆さは戦場だけでなく、他の戦国大名たちに対しても発揮されていました。

 

福島正則に招かれて

福島正則は後藤又兵衛の武勇を買っていたようで、ある時、又兵衛を屋敷に招きます。

 

この時、正則の酒癖の悪さが出てしまい、以前に黒田長政から届いた書状を差し出し、「何だこの字の汚さは?黒田家には良い、右筆(文章の代筆をする人)がいないのか?」と絡み始めます。

 

この因縁に対して又兵衛は、「黒田家には良い右筆はいますが、良い大将には良い右筆が、悪い大将には悪筆が書を送っています。」と答え、正則を黙らせたと伝わっています。

 

福島正則は母里太兵衛に日本号という槍を呑み取られるなど、黒田家の武士との相性はあまり良くないようです(笑)。

正則は黒田長政、池田輝政とも喧嘩したという記録が残っているのですが、それに物怖じしない又兵衛の胆力もかなりのものです。

 

黒田長政との決別

黒田長政の下で家老として仕えていた又兵衛ですが、ある時、長政との間に不和がおきます。

これは又兵衛が長政と仲が悪かった隣国の細川忠興の押さえとして大隅城に入った際に、逆に細川家と懇意にしてしまったためだと言われています。

 

長政の怒りに触れた又兵衛は黒田家を去り、池田輝政に仕えます。

しかし、長政が輝政に対して又兵衛を家臣としないように訴えたため、池田家に居ても輝政の迷惑になると思い池田家からも去ることになります。

 

その後は、長政が奉公構(ほうこうがまえ)と言って、どこの大名にも仕えれなくなる罰則を出したため、又兵衛は浪人となります。

 

今で言えば、辞めた会社の社長が他の会社に『こいつは絶対に雇用しないように。』というメールを一斉送信するようなものなので、この長政の対応にはさすがの又兵衛もメンタルを破壊されたのではないかと思います。

 

大坂冬の陣での活躍

そんな又兵衛に声をかけてきたのが豊臣秀吉亡き後の豊臣秀頼でした。

豊臣家を滅ぼそうとする徳川家康との決戦を前に、有能な武将を配下に加えたいという豊臣家の申し出に乗り、又兵衛は大坂の陣に出陣することとなります。

 

大坂城に入ると、既に名前が知られていた事や実戦経験が豊富な事もあり、指揮官として閲兵式に参加しています。

籠城戦の巧みさで名前が知られていた真田幸村と、野戦での武功が多い後藤又兵衛の2人。

 

それに加え、宇喜多秀家の家臣であった明石全登、関ヶ原の戦いに負けて土佐の大名の地位から転落した長宗我部盛親、幸村や又兵衛に勝るとも劣らない采配を振るったと言われる毛利勝永が「大坂5人衆」と呼ばれ、豊臣軍の中心となります。

 

関連記事→大坂の陣で真田幸村と共に戦った大坂城五人衆の逸話!!

 

大坂冬の陣で起こった戦いの一つ、今福の戦いでは佐竹義宣と交戦していた木村重成が劣勢に陥るのを大坂城の天守閣から見ていた又兵衛は、救援に駆けつけ佐竹軍を追い返します。

戦巧者の又兵衛らしく、鮮やかな用兵だったと伝わります。

 

一方、天下の堅城である大坂城の防御力に絶対の自信を持っていた淀の方(豊臣秀頼の母親)でしたが、徳川方の放った大砲が本丸に命中し、死者がでたため一気に不安に陥り、和議を結ぶ事になります。

(この時代の大砲は命中率も低く狙った通りには行かないものが、たまたま本丸に命中したと言われています。)

 

大坂夏の陣での最期

和議の条件は大坂城の二の丸、三の丸の破壊と堀の埋め立てでした。

外堀だけを埋める約束だったものを、徳川方が約束を破って内堀も埋めてしまったという話が有名ですが、この話は創作で、最初から内堀も埋めるという条件だったとされています。

 

城の掘りが埋められ、二の丸、三の丸が破壊された豊臣方は城を出て、総大将である家康の首だけを狙って決戦を挑みます。

 

後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永の3名が連携して徳川軍の先鋒部隊を攻撃する作戦でした。

しかし濃霧のため真田、毛利の部隊の進軍が遅れ、徳川軍の進軍も速かったため、又兵衛の部隊だけが先行し、徳川軍と対峙する事になります。

 

作戦が失敗に終わった事を悟った又兵衛は自身の軍勢だけで徳川軍と戦います。

一時は優勢に戦を進めますが、数に勝る徳川軍に押し返され、伊達家の鉄砲隊に狙撃され戦死したと伝わっています。

 

幸村にとってもこの又兵衛の死はとても大きく、自分たちの後詰めが遅れたことを深く悔やんだと言われています。

 

後藤又兵衛の生存説と耶馬溪の墓所

大分県中津市に耶馬渓(やばけい)という場所があるのですが、ここに後藤又兵衛の墓があります。

大坂で亡くなって大分県にお墓?と思うかもしれませんが、これは又兵衛が大坂の陣で戦死しておらず、この地で亡くなったとされるためです。

 

実は薩摩に豊臣秀頼のものと言われる墓が残っていて、これは大坂城が落城する前に後藤又兵衛が豊臣秀頼を島津氏に匿ってもらうため薩摩まで送り届けたためだとされています。

 

又兵衛は秀頼を無事に薩摩まで送り届けた後、かつて黒田官兵衛が中津に居城を構えていた時の知人の元で暮らし、やがて秀頼が病死したことを知ると自害して果てたと伝わります。

 

こういった、実は「〇〇は生きていた」、「〇〇は死んでいなかった」という話は歴史上には多く存在し、「〇〇の墓」というのは地元の人の伝聞で後世に伝わっていくものなので、どこかで間違えて伝わることもあると思います。

 

私は豊臣の直臣でもなかった又兵衛が秀頼を連れて大坂の陣を抜け出すということは考えられないと思っているのですが、皆さんはこの話をどのように考えられるでしょうか?

 

 

黒田家でのライバル?母里太兵衛の存在

後藤又兵衛と並ぶ黒田家の武将として母里太兵衛という人物がいます。

太兵衛も又兵衛と同じく、勇猛果敢なことで知られ、戦で上げた戦功は黒田家の中でもトップクラスでした。

 

母里太兵衛は黒田家の三番家老と呼ばれていて、栗山善助、井上九郎右衛門に次ぐ序列だったとされていますが、槍働きは抜群で、黒田家一となる76の首級を生涯で上げています。

 

関ヶ原の合戦は本戦に参加せずに黒田官兵衛に従って九州で戦ってい、その戦功から1万8000石で鷹取城に入っています。

 

両者の比較

母里太兵衛と後藤又兵衛は太兵衛の方が4歳年上になります。

関ヶ原合戦後の所領も太兵衛の方が2000石多いですが、そこまで大きな開きもないことから、黒田家にとっては2人とも同じくらいの貢献度だったことが分かります。

 

実際に官兵衛が当主となった初期の頃は母里太兵衛が先陣を務めていたようですが、朝鮮の役では太兵衛と又兵衛が交代で先陣を務めていたと言われているので、黒田家での信頼の高さがうかがえます。

 

ただ、個人的な感想ですが、2人の武将としてのタイプには違いがあったのではないかと思っています。

太兵衛はどちらかというと自ら先陣を切って槍で敵を打ち取る事を得意としていて、又兵衛は大群を指揮して敵を討ち取ることを得意としていたように見えます。

 

これは又兵衛が大活躍した大坂の陣を見ても分かるのですが、又兵衛はやはり用兵の才ずば抜けていたようですね。

 

又兵衛の用兵の巧みさには真田幸村も一目置いていたと言われています。

 



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