「秀才と天才は何が違うの?」そう聞かれたらあなたはどう答えますか?

筆者は秀才と天才の一番の違いはポテンシャル。

日本語で言うところの潜在能力だと思っています。

 

ポテンシャルとは生まれ持っての才能だったりセンスであったり、あるいは多少の運というものも絡んできます。

簡単にいうと、「カリスマ性をもってる人」。

それこそが天才タイプの人だと思います。

 

そして織田信長が天才型であるなら、今回取り上げる信長の弟・織田信行という人物は、努力でそれら才能を補う秀才型の人だといえるかもしれません。

 

そして、努力型の人間だったからこそ、その能力が自分自身を苦しめることになります。

これはどういう意味なのでしょうか?

 

今回は信長の弟で、家督を争って対立した織田信行(信勝)について詳しくみていきましょう。

 

三日月

織田信行はこの名前の他に勘十郎、信勝、達成、信成などという名前を名乗っています。

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うつけな兄・信長と常識人な弟・信行(信勝)

織田信行(信勝)は尾張の大名・織田信秀とその正妻・土田御前の間に生まれました。

生まれた年は正確には分かっていませんが、1536年ではないかと言われています。

 

織田信長が1534年ですからこれが正しいとなると信行は信長の2歳年下の弟となります。

 

織田信長の銅像の写真
織田信長の銅像

 

ちょうど私にも2歳年下の弟がいるんですが2歳差って微妙ですよね。

ものすごく体格に差があるわけでもなく、比べられるにはちょうどいいほどの年齢差。

何かと兄弟で比べられることも多いものです。

 

当時、織田信秀が末森城という城を居城にしていたことから織田信行もここで育ちました。

信秀の補佐をしつつ仕事を教えてもらいという感じ。

1551年に織田信秀が病に倒れてからは信行が代わりにその仕事をするようになり、信行の存在はさらに重要になります。

 

熱田神宮に対して判物と呼ばれる文書を発給し、そこに信行が花押を押しているのですが、その花押は信秀ととても類似していました。

これは信行が信秀の教えに忠実に、またまだ慣れない仕事を一生懸命にこなしていた証拠だとも思えます。

 

そんな中、織田信秀が明確に後継者を指名することなく亡くなり、これが織田家中に火種をもたらしまくってしまいます。

信秀の存命中は末森城主に織田信秀、そして那古屋城主を織田信長が務める二元体制が取られていました。

 

織田信秀と土田御前の銅像
織田信秀と土田御前の銅像

 

しかし、信秀が病に伏してからは信秀がやってた城主としての仕事は信秀の近くにいた信行がやっていたのです。

 

そこで織田家中の家臣たちは、「これまで信秀様がやってた仕事は信行様がやっていたんだから、この度信秀様が亡くなったというなら家督も信行様が次ぐべきだろ」という派と「いやいや、信秀様は信長様を嫡男としてそれを変更せずに亡くなったんだから信長様が後を継ぐのが筋だ」という派閥に分かれてしまいます。

 

さらにこの議論を加熱させたのが信長と信行の普段の素行でした。

今でこそ名将として日本人が好きな偉人ランキングを総ナメにする織田信長ですが、当時はお世辞にも素行がいいとは言えませんでした。

 

普段から奇抜な格好で城下町にでたり、織田信秀の葬儀の時などは仏前において抹香を投げつけるなどの素行の悪さで、「尾張のうつけ(バカ)」と呼ばれるほどだったのです。

それに対して信行は、信長が香をぶちまけた葬儀の時においても礼儀正しく作法に従って振舞うなど、信長公記でも「折目高なる肩衣・袴めし候へて、あるべきごとくの御沙汰なり」とベタ褒めされています。

 

かくして葬儀が終わったときのこの両者の印象は、「素行不良な兄」と「良識的な弟」と大きく明暗を分けてしまったのです。

 

信長と対立するも最初は信行の方が優勢に

信行に積極的に跡継ぎになるという野心があったのかどうかは不明なのですが、信秀亡き後、信行は自分こそ正当な当主であるというアピールをするような行動をとり始めます。

 

たとえば、主君筋で守護代の織田大和守家がよく名前に使っていた「達」という字を使って織田達成と名乗ったり、織田信秀の官職だった「弾正忠」を名乗るなどしています。

また、また商業地熱田の権益をめぐって信長と違う豪商に判物を発給することもしています。

 

そのため、信長の情勢はあまり芳しくはありませんでした。

1553年には織田信長の守役であり、信頼していた部下でもあった平手政秀が突如切腹。

この切腹は信長を諌めるためとも言われているのですが、信長は自分を支えてくれる重要な家臣を失うことになってしまいます。

 

さらに1556年の4月には信長の妻・帰蝶の父、斎藤道三が美濃国で謀反にあい、長良川の戦いで戦死します。

しかもその謀反の犯人である道三の息子、斎藤義龍が尾張国の信長の敵対勢力(岩倉織田家など)を支援し始めたのです。

信行はこれを兄・信長と雌雄を決する決定的なチャンスと考えます。

 

斎藤道三が長良川で戦死した年と同年の1556年8月、林秀貞や柴田勝家らとともに信長に対して決戦を挑みます

これに対し信長も名塚砦に自派の佐久間大学を入れるなどして信行を牽制。

 

両者の激突はいよいよ決定的なものになります。

 

信長と信行の兄弟対決!稲生の戦い!

戦いは信行の家老の柴田勝家が名塚砦という砦に攻めかかった事から始まりました。

柴田勝家といえば「かかれ柴田」と呼ばれることで有名な猛将。

 

その猛将ぶりはこの時から健在で、佐々成政の兄の佐々孫介など、信長方の有力な武将を打ち取るなどの戦功をあげ、その勢いに乗ってさらに信長の本陣にまで攻め込みます。

 

信長の本陣で戦うのはわずか40名ほど。

その本陣に襲いかかるのは猛将柴田勝家の率いる軍勢1000。

 

もはや信長と信長軍の命運も風前の灯かと思われたその時でした。

 

織田信長がここで突如敵である柴田軍に大声で怒鳴りかかります。

信長の声量は後にルイス・フロイスとい宣教師が書いた書物の中でも特筆されているのですが、この大音声に柴田軍は完全にビビってしまい撤退。

 

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織田信長ってこんな人!ルイス・フロイス私が見た信長の性格と人柄

 

形勢は逆転し、勢いを取り戻した信長軍はそのまま林軍に攻めかかって撤退させます。

その結果、信行軍も撤退。

 

林美作守など450名を打ち取られて敗北する散々な結果で末森城に敗走することになります。

かくなる上は城にこもって戦おうと主張する信行ですが、生母である土田御前の説得により降伏することになります。

 

やっぱり信長の下に付くのは嫌!信行の最期

そういうわけで信長に頭を下げることになった信行とその家臣の柴田勝家たち。

生母・土田御前による「まぁまぁ本人たちも反省しているみたいですし……」という仲介があったこともあり裏切りに厳しい信長も「ちゃんと反省しろよ」って感じで信行たちをお咎め無しとします。

 

信行も名前を達成から信成(そこ、スケート選手とか言わない)に変えたり、弾正忠を名乗るのをやめるなどして反省・・・・。

 

しているかと思いきや、実は全くそんなことはなく、裏で信長と敵対する斎藤家とメル友になったり1558年には竜泉寺城という新たな城を作ったりなどと全く反省していなかったのです。

 

しかし、残念ながら信行の野心は意外な人物の密告によって突如終わりを告げます。

その密告した人物こそ信行の腹心で、信長に対する家督争いにも付き従ってきた柴田勝家でした。

 

この頃、信行は津々木蔵人という若衆に入れ込んでおり、柴田勝家のことを(タイプではなかったために)軽んじていたのです。(この時代の男色は常識。信長も前田利家や森蘭丸らと衆道関係にありました。)

 

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仏の心で許してやった弟がまたしても謀反を企てているということを知った信長は激怒。

仮病を使って信行を清洲城に呼び出します。

 

信行は「病気になったから見舞いに来い」という信長の知らせで清洲城へ行きますが、清洲城に入ると信長の家臣たちに謀殺されてしまいます。

ドラマなどでは床に伏せっている信長が見舞いに来た信行を自ら刀で斬り伏せるようなシーンがありますが、実際は家臣に命じて誅殺したというのが本当のところだと思います。

 

信行は享年は23才。

この一件で柴田勝家は信長からの絶対的な信頼を獲得し、信長は尾張のほぼ全域を支配下にいれ尾張平定を成し遂げることに成功します。

ちなみに信行には坊丸(後の津田信澄)という息子がいるのですが、彼は助命され、信長の有力部将として活躍することになります。

 

織田信行に関する総評

織田信長は「魔王」や「覇王」と呼ばれ、相手に対して厳しく自分に対する反逆は一切許さないという印象があります。

それを印象づける出来事の中で1番分かりやすいエピソードが信行との対立です。

 

「信長は自分が正当な後継となるために弟を殺した。」

「目的のためなら手段を選ばない人物だ」という訳ですね。

 

しかし、信長は一度は敵対した弟や部下たちを許し、柴田勝家のように結果を出す家臣は重用したという事実が見えてきます。

それに対して信行は、素行もよく人に好かれる危なげない人物なように見えて、実は野心家であるという一面もありました。

 

おそらく半端な情けをかけて生かしておけば後々もう一度謀反を起こしてもっと多くの犠牲者が出たことでしょう。

一度は皆からその能力を買われて担ぎ出されたものの、その後引き際を誤った織田信行。

 

もし彼が引き際を誤らず生きていれば信長のもとで存分にその能力を活かして活躍し、本能寺の変や山崎の戦いなどの重要な局面においてキーマンになること間違いなしだったのではないでしょうか……。



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