戦国最大のミステリーといわれる「本能寺の変」。

明智光秀はなぜ謀反という挙に踏み切ったのでしょう?これまでにもたくさんの説が唱えられてきました。

 

  • 千載一遇のチャンスに賭けた「野望説」
  • 信長に対して恨みを抱いていたという「怨恨説」
  • 朝廷をないがしろにする信長を討とうとした「朝廷黒幕説」
  • 実は羽柴秀吉が裏で糸を引いていた「秀吉黒幕説」

 

などなど、「なるほどな~!」と納得しそうなものばかり。

ところが、どれも決定的な証拠となるものがなく、真実は闇の中です。

 

しかし、近年になって注目されている説があるんです!

それが「足利義昭黒幕説」というもの。

 

今回は「なぜ足利義昭が黒幕だったの?」ということにスポットを当てて考えていきたいと思います。

三日月

足利義昭黒幕説とは?

足利義昭と明智光秀が共謀して信長を倒し、信長亡き後は義昭を京都に呼び戻して室町幕府を再興させようとしていたのではないかという説です。

 

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本能寺の変の当時、足利義昭は何をしていた?

1568年、織田信長と共に上洛を果たした足利義昭は、晴れて征夷大将軍に就任しました。

 

しかし最初は良好な間柄だったものの、信長の専横に我慢ならなくなってきた義昭は、「もう信長の言いなりになるのはまっぴらご免じゃ!こうなったら信長を滅ぼすのみ!」と奮起。

各地の戦国大名に信長打倒の檄を飛ばします。

 

義昭が発給した御内書に呼応したのが武田信玄、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺などの勢力。

他にも荒木村重や松永久秀といった武将も包囲網を形成して信長を苦しめました。

 

そうした義昭の動きに釘を刺そうと、信長は17条にも及ぶ意見書を突きつけます。

これに激怒した義昭、近臣の反対にも関わらず信長打倒のため挙兵するという暴挙に出たのです。

 

しかし、味方になる武将たちはほとんどおらず、義昭はあっけなく降伏。

最終的には京都を追い出されてしまいます。

 

その後義昭は、堺、紀伊と放浪を重ね、最後は毛利氏を頼って備後国(現在の広島県東部)の鞆(とも)という港町に腰を落ち着けています。

 

といっても義昭は将軍を辞めた訳ではありません。

幕府機構もそのまま鞆へ移動していますし、義昭の勢力もまだまだ健在。

そのため「鞆幕府」として続いていたことになります。

 

この共に滞在している期間も、義昭は各地の戦国大名たちに「信長をやっつけて!」という御内書をせっと送り続けています。

 

【関連記事】

足利義昭が織田信長からもらった意見書の内容と晩年の様子を解説!

 

足利義昭と明智光秀の関係性は?

明智光秀はかつて足利義昭の家臣でした。

それから信長に仕えることとなり、義昭のもとから離れます。

 

明智光秀の出自は美濃土岐氏の流れ。

斎藤道三・義龍との争いの中で領地を追われ、越前の朝倉氏を頼ったとされています。

 

光秀が朝倉氏に寄寓していた頃、三好や松永らに追われた義昭もまた朝倉氏を頼ってきたのでした。

二人の接点はこれが初めてでしたが、上洛のパートナーとして信長との仲介をするなど義昭のために奔走。

 

これ以降、光秀は義昭の近臣として仕えることになります。

義昭にとって光秀はいわば恩人であり、信頼すべき相手だったということになりますね。

 

そのため、信長によって義昭が京都から追放された後も、双方が何らかの形で連絡を取り合っていたとしても不自然ではありません。

そして、光秀の家臣団には石谷光政や伊勢貞興といった室町幕府の幕臣たちがいたことも無視できないポイント。

 

明智光秀は義昭が鞆に滞在してる時期にも、頻繁に連絡をもらっていたのではないかと考えられます。

 

「足利義昭黒幕説」の根拠がこれ

史実を明らかにするためには、必ず「史料」が確かなものなのかどうか?が問題になってきます。

「足利義昭黒幕説」が有力になったのは、つい最近発見された「森文書・土橋重治宛光秀書状」というものがきっかけです。

 

これは紀伊国で信長と敵対していた土橋重治に宛てた光秀の書状。

本文と現代訳文を読んでみましょう。

 

「なおもって、急度御入洛の義、御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細あたわず候、仰せの如く、いまだ申し通ぜず候ところに、上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然れども御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事」

参考:森文書・土橋重治宛光秀書状

 

現代文に訳すとこんな感じになります。

「初めまして。将軍を京都に迎えるためにご助力いただけることをお示し頂きありがたく存じます。将軍が京都に入られることにつきましては、既にご承諾しています。そのようにご理解されて、物事がうまく運ぶように努力されることが肝要です。」

 

超簡単にうと、「義昭様が京都に来ることになっているから、それが実現するように力を貸してね」ということです。

 

さらに但し書きとして、こう書かれています。

 

「【追伸】将軍が京都に入るという目的が達成されるように努力されることが大切です。詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。委細につきましては、私からは申し上げられません」

 

繰り返し、将軍義昭が京都へ帰還したら奔走(駆けつける)ことが大事だと言っていることが分かりますよね?

 

ただ光秀は「委細については申し上げられない」とも言っています。

光秀がこの手紙を書いたのは本能寺の変を起こした直後で、将軍がまだ鞆にいる状況で確かなことを言えないからです。

 

「とりあえず信長は倒して、鞆から義昭様が来ることになってる。

詳細は本人から聞いてほしいんだけど、とりあえず義昭様が京都に入られるように力を貸してね。」

 

という感じですかね。

 

この手紙をみると、光秀が義昭を報じて信長を倒したということが分かります。

 

「足利義昭黒幕説」の問題点とは?

しかしながら、この文書の中に問題点もあります。

日付が6月12日で、本能寺の変から10日も経過しています。

 

そういった日付を指摘して、「光秀と義昭が事前に共謀した証拠ではない。」と主張する識者も少なからずいます。

また、光秀が味方を募るために、「将軍が京都へ帰還される」と情報を流したということも考えられます。

 

しかし、周到な準備を怠らない性格の光秀が、そんな計画性もなしに単独で大それたことをするでしょうか?

 

あくまで仮説ですが、光秀と義昭との間で密かにやり取りがなされていて、「いずれ信長を討つチャンスがあれば頼むぞ!光秀!」と義昭から懇願されていたと考えるとどうでしょう?

 

毛利氏と対峙している羽柴秀吉から、信長への出馬要請が届いたのは5月17日。

信長は自らが出馬して毛利と決着を付けるべく出陣の準備に掛かり、29日には本能寺に到着していました。

 

ほぼ時を同じくして光秀に対しても、徳川家康への饗応役を取り上げて中国地方への出陣を命じています。

そんなバタバタしている最中に義昭と連絡を取り合う余裕はありませんし、とりあえず命令通りに出陣準備をするしかなかったでしょう。

 

そこでとっさに謀反を起こすことを思いついて決行。

それから義昭と連絡を取り合ったと考えるのは少し無理があります。

※昔は京都から鞆(広島)まで情報が伝わるのに4日くらいの日数がかかりました。

 

しかし、義昭との密約があり、常にスキを狙っていた光秀のもとに、「信長と信忠が少数の兵で京都に宿泊している」という情報が届いた・・・。

 

「今がチャンスなのでは?そして義昭公を京都へ迎え入れれば幕府が再興できる!」

こんな流れだったと考えると辻褄が合わないでしょうか?

 

光秀の計画が失敗して一番悔しがったのは義昭?

信長らを討ち果たした後、光秀は毛利に対して密使を送り、羽柴軍を足止めしておくように依頼します。

しかし残念ながら密使は羽柴軍によって捕らえられ、真実を知った秀吉は中国大返しを行うことになるわけです。

 

「義昭を京都へ迎え入れれば、後は何とかなる」

 

光秀はそんなふうに考えていたのかもしれません。

とりあえず畿内の敵対勢力を抑え、将軍をトップに戴くことさえできれば大義名分が成り立つわけですからね。

 

しかし、秀吉の迅速な行動で光秀の計画はもろくも崩れ去りました。

 

将軍に復帰するチャンスを逃した義昭。

山崎の戦いでの光秀の敗北を一番悔しがったのは義昭だったのかもしれません。

 

【参考資料】

美濃加茂市民ミュージアム所蔵「(天正10年)6月12日付光秀書状」資料

三重大学教育学部 藤田達生 教授 プレスリリース発表資料

 



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