豊臣秀吉の後継者として秀頼が誕生するまでに権力を誇った豊臣秀次。

豊臣秀次は秀吉の姉の子供で、秀吉の後を継ぎ関白となります。

 

小牧長久手の戦いで惨敗した事や、悪行の数々から”殺生関白”という評判がついて回っていた秀次ですが、最近は善政を敷いた名君として再評価されてきています。

秀次が謀反人として秀吉に切腹を告げられた背景には、いったい何があったのでしょうか?

 

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豊臣秀次の評価

秀次は数々の悪行を働いていたとされ、

 

  • 農民を鉄砲で撃ち殺す
  • 辻斬りを繰り返す
  • 妊婦を殺害して胎児を引きずり出す

 

など、人の命を軽視した行動があったため殺生関白という異名を持っています。

 

Toyotomi_Hidetsugu

 

しかし、一方で秀吉から与えられた近江八幡の領地では善政を敷き、領民からも慕われていたと言われています。

果たしてこれはどちらが正しい情報なのでしょうか?

 

秀次はどんな性格だった?

キリスト教の宣教師は秀次のことを『秀吉と違って人から愛される性格』、『穏やかで思慮深い』と評価しています。

合戦に出陣しては結果を残し、秀吉も秀次を養子に迎えて関白にしていことから、武将として人並み以上の資質を持っていたことは間違いありません。

 

現代では優れた能力を持った名君だったと再評価される動きがあり、数々の悪行を行った殺生関白というイメージを作ったのも秀吉による策略だったのではないかとさえ思えてきます。

歴史上の人物の評価は、勝者の歴史の中で編纂されたものなので、どこまで信用できるのかは微妙なところです。

 

私も、秀次は無能で凡庸な武将というイメージだったのですが、近江八幡の人々からは今も尊敬されていて、銅像まで建っていることを考えると、やはり優秀な人だったんだろうなと思っています。

そうすると、やはり秀吉のイメージ操作の影響が大きく、過小評価されている武将なのかも知れませんね。

 

秀次が暗愚と言われる逸話

豊臣秀次は殺人を何より好んだとされ、「殺生関白」というあだ名が巷で流布していました。

 

秀次の性格を表すエピソードとして、弓や銃、剣術を好んで用いたとされています。

彼はその威力と腕前を試したくて、そこらの農民や能芸者を呼びつけては片っ端から腕試しの実験台にしたと言うのです。

 

さらに、罪人が処刑される際には自ら処刑人を演じて罪人の四肢を1つずつ切断して散々苦しませて殺したというエピソードも残されています。

また、女人禁制の聖域である比叡山に女房(当時は妻ではなく侍女という意味)を伴って来ては、夜は淫乱放蕩、そして日中は鹿や猿を狩りに狩ったという事も伝えられています。

 

正親町天皇が崩御した際、服喪期間中にも関わらず狩猟を行ったとされる事も彼の暴虐っぷりを伝えるエピソードの1つです。

しかし、こうしたエピソードは秀次のような不遇の最期を遂げた人物にはよく付け加えられるお約束のようなものです。

 

同時代では、息子・武田信玄に甲斐から追放された武田信虎にも、妊婦の腹を裂いて胎児を摘み出したとか農民を銃の的にしたというエピソードが伝わっています。

 

秀次にも同様のエピソードがあり、暗君として印象付けるために使い回されていた話だったのでしょうか?

淫乱放蕩は彼が30人以上という側室を抱えていたことから流れた噂と考えた方が自然でしょう。

 

彼も権力者ですから、真剣に後継者について考えていたでしょうし。処刑に関してもそもそも実質の天下人である秀次がわざわざ処刑場にいちいち赴くのかという疑問が残ります。

 

当時から秀次に関する悪い噂が流れていたというのは事実のようですが、秀次の暴虐に関する話は大半が伝聞・風聞に近い根拠に乏しい話であると考えた方がより真相に迫っているでしょう。

 

秀次に対する良い評価

秀次が近江43万国の大名に任命された時の有名な話。

近江八幡で水利を巡る領地争いが起き、住民は秀次に採決を求めます。

 

すると秀次は、田中吉政を派遣して検知を行い、原告と被告の双方が納得する採決を下せたという逸話があります。

彼は当時17歳に過ぎませんでしたが、田中吉政らの優れた家臣の協力もあって自分の力を発揮するようになりました。

 

小牧長久手の戦いの時に家康の本拠地・三河を攻めようという案が持ち上がったると、秀次は自ら大将となって前線に出たいと主張しました。

この時は秀次の失態によって大損害を被ることとなりますが、彼には二代目にありがちな軟弱さはなく非常に果敢な性格でした。

 

その後、彼は雪辱を晴らそうとして数々の戦で戦功を立てました。

そんな彼の頑張りを秀吉もかなり評価していたようで、秀吉が留守の際は秀次が大坂の守備を任されるようになります。

 

官位においても、徳川家康、織田信雄、豊臣秀長に次ぐ第4位として重用されます。

彼は武勇だけでなく、あの千利休の弟子の1人に数えられるような教養人・文化人でした。茶道の他に連歌にも長け、小田原征伐の際には経典を保護し持ち帰るように指示したと伝わるほどでした。

 

同じように秀吉の近親者で養子となった者の中に、小早川秀秋がいます(世代は秀秋が2回りも下ですが)。

彼もまた秀吉の後継者候補として育てられましたが、若年にして酒にハマり秀吉からは後継者としての資質なしを判断されていました。

 

三成や家康からもあまりよく思われてなかったようです。

それに比べると、秀次は戦功も資質も十分な逸材であったということになります。

 

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豊臣秀次事件の原因は何?

1593年(文禄2年)、秀吉と淀殿の間に秀頼が生まれました。

それまで後継者として不動の地位を築いていた秀次でしたが、秀頼生誕以降、秀吉と秀次の間には次第に溝が広がっていきました。

 

大陸進出を本気で考えていた秀吉に対し、秀次は国内の安定を第一に考えて賛成していませんでした。

 

そんな中、秀次に対して謀反の疑いがかけられます。

秀吉は秀次に対し伏見に出頭する命令しましたが、秀次にはもちろんそんな気などなかったので当初は命令に応じませんでした。

 

しかし数日後、前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊から「急ぎ伏見に来い」と言われた秀次は、無実を証明するために仕方なく自ら伏見に行こうとします。

 

しかし、いざ伏見に到着した秀次は秀吉に面会を拒否されて大名の邸宅に留め置かれてしまいます。

そして秀吉は秀次に切腹を命じます。

 

秀次に謀反を起こす気があったのかどうかや、秀吉が切腹を命じることになった直接の原因についてはハッキリ分っていません。

 

ただ、秀吉が関白を秀次に譲った後に、実子である秀頼が生まれているので、何とか秀頼に後を継がせたいと思っていたのは確かです。

我が子の将来を案ずるあまり、秀次の存在が邪魔になり、色々と理由をつけて秀次を切腹に追い込む・・・。

晩年の秀吉ならやりそうなことかもしれませんね。

 

秀次の最期と悪逆塚

秀吉が秀次に謀反の疑いありという事で下した命令は切腹。

秀次は一旦、高野山に入った後に、福島正則から切腹という秀吉の命を伝えられています。

 

青巌寺の”柳の間”で腹を切り、切腹が終わると首は京都の三条河原に晒されます。

そして、その晒された首の前で一族郎党が処断され、埋葬した上に石櫃を置いて塚が築かれました。

 

この石櫃には『悪逆』という文字が彫られていたそうです。

そのため、塚は悪逆塚(畜生塚)と呼ばれ、長い間放置されていました。

 

このあまりに酷い扱いも、何としても秀次に非があったのだと民衆に刷り込むための秀吉の演出だったのかもしれません。

 

三条河原で側室や子供も処刑

秀次に謀反の疑いがかかった時、30人以上いたとされる秀次の側室(妻妾)にも捕縛命令が下されます。

彼女達は丹波亀山城に監禁され、田中吉政の監視下に置かれます。

 

7月15日、高野山に秀吉からの使者が来ると、既に仏門に入っていた秀次に死罪が命じられます。

通常、仏門はいかなる権力者にも罪科が及ばない場所ですが、これは異例の事態でした。

 

当然、僧侶達の間では秀吉の命令に対し抗議しようという意見が紛糾します。

しかし秀次はこの命令に従い、とうとう自害してしまいます。

 

そして残された側室達も8月1日には処刑を命じられます。

執行日は何と8月2日、翌日には京の三条河原でも大処刑が敢行されます。

 

まずは秀次の子供達が処刑され、続いて側室30人が誅されます。

子供の遺体の上に妻妾の遺体が無造作に放り投げられ、そのあまりの乱暴っぷりに観衆からは罵詈雑言が飛び交いました。

 

数時間にも及ぶ処刑の結果、大量の遺体は1つの穴に収められ、その上に秀次の首塚が置かれました。

首塚の石塔には「秀次悪逆」の文字が彫られました。

 

秀次に出頭命令を下してから一族の処刑まで、僅か1月半という異例の早さでした。

被害が及んだのは秀次一族だけでなく、彼の家臣や彼を擁護した大名達にも及びました。

 

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