大河ドラマ花燃ゆに登場する梅田雲浜(うめだうんぴん)。

ドラマの中では、どことなく危険な雰囲気を漂わせる梅田雲浜をきたろうさんが怪演していますね。

 

実はこのは梅田雲浜は世間的にはあまり名前の知られていない人物ですが、吉田松陰の運命を大きく揺るがした存在です。

雲浜と松陰が出会っていなければ松陰はもっと長生きしていたかもしれません。

 

では梅田雲浜の存在は吉田松陰の人生にどのような影響を与えたのでしょうか?

 

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梅田雲浜とは

梅田雲浜は小浜藩(現在の福井県)出身の儒学者です。

幼いころから藩校や私塾で学び、27歳で湖南塾という塾を開いて子弟の教育に努めていました。

 

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しかし、ある時雲浜は藩に意見書を出し、藩主・酒井忠義の怒りを買って小浜藩士の地位を剥奪されています。

ここまで見ると、何となく吉田松陰と似た経歴の持ち主で、同じような道を歩いている事が分かりますよね。

 

松陰も藩主・毛利敬親に対して意見書を書いているので、2人はどこか性質的に似たような気質があったのかもしれません。

 

雲浜と赤禰武人

梅田雲浜は長州藩に滞在していたことがあり、この時に吉田松陰とも交流を持っています。

そして、熱心な尊王攘夷論者だったこともあって、松陰だけに止まらず、長州滞在時に多くの志士との関係を強化していったものと思われます。

 

後に京都に戻った雲浜は望南塾という塾で教鞭をとっていたのですが、幕府を批判するなど過激な言動の多かったため、幕府に目を付けられ逮捕されてしまいます。

 

この時、松下村塾で吉田松陰に学んでいた赤禰武人が雲浜の下にいたのですが、武人も一緒に捕縛されてしまいます。

 

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後に赤禰武人は釈放されますが、雲浜が許されることはなく、この逮捕が安政の大獄の始まりとなります。

 

松陰を巻き込む

以前、吉田松陰が老中・間部詮勝の暗殺を企てたことで、萩の野山獄に入れられたという記事を書きました。

そして、後に松陰は江戸に送られることになるのですが、そのきっかけとなったのがこの梅田雲浜の逮捕でした。

 

松陰が江戸に呼び出された理由は2つ。

 

・梅田雲浜が長州へ行った時に松陰と面会したと話しているが、どんな話をしたのかという事。

・京都御所の前に落とされていた人々を扇動するような書の筆跡が松陰の字に似ていると雲浜が言っているが事実か?

 

という事を確認するためでした。

 

評定所に呼ばれた松陰はこれらの尋問を上手くかわしますが(御所の前の扇動書については無関係)、この後に間部詮勝襲撃計画を自白してしまい、処刑されることになってしまいます。

 

この時、何故雲浜が扇動書の筆跡が松陰の筆跡に似ているといったのかは分かりません。

しかし、結果的に梅田雲浜と交流があったことで松陰は安政の大獄に巻き込まれてしまうことになります。

 

雲浜の最期

松陰は取り調べの際に「雲浜はずる賢いところがあるので、そんな人物と志を共にするはずがない」と語っています。

これは、本心を述べているのか、取り調べを逃れるための虚言なのかは分かりません。

 

実際に雲浜が幕府に捕えられた時には、赤禰武人に救出を指示したとも言われているので、雲浜と気持ちの通じる部分はあったのだと思います。

 

ただ、この雲浜との関係が松陰の運命を決めたことは間違いありません。

松陰を安政の大獄に巻き込んでしまうことになった雲浜。

 

自身の幕府に対する厳しい批判は大義のためだとして、繰り返される拷問にも何もしゃべることはなく、最後は獄中で45歳の生涯を閉じます。

 



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