松下村塾の四天王に上げられる久坂玄瑞は禁門の変に出陣し、25歳という若さで最期の時を迎えます。

この戦には同じく四天王の入江九一、そして松下村塾生の寺島忠三郎も従軍し、同じく最期を迎えています。

 

では、若き松下村塾の塾生たちが命を断つことになった禁門の変とは、いったいどういった出来事だったのでしょうか?

 

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禁門の変

八月十八日の政変で京を追われた長州藩では、薩摩藩、会津藩から京都を奪還しようとする動きが強まっていきます。

実力行使での京都奪還を主張する主戦派の中心にいたのは来島又兵衛。

 

今までは過激な行動が目立っていた高杉晋作や久坂玄瑞もこの時ばかりは慎重に事を運ぶようにと努めていました。

しかし、そんな中で池田屋事件で吉田稔麿が討たれたという一報が入ると、我慢の限界に達した長州藩の家老らが兵を挙げ進軍。

 

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八月十八日の政変で謹慎となった主君・毛利敬親の処分を解いてもらうために朝廷に直訴するという名目で京都周辺に集結します。

そして、最初は出陣に反対していた久坂ら松下村塾の塾生たちもこの軍勢に加わることになります。

 

山崎、嵯峨、伏見に陣を張った長州勢は朝廷に藩主の罪の回復を願い出ますが、朝廷はこれを許さず、長州藩に退去命令を出します。

 

久坂はこの退去命令に従うように進言しますが、来島又兵衛らは久坂の意見を退けて出陣。

その時久坂に言い放った言葉は「医者坊主に戦の事が分かるか!!」といったものだったと言われています。

 

来島又兵衛率いる軍勢は京の町を進軍し、御所の蛤御門(はまぐりごもん)で会津の兵と交戦。

最初は優勢に戦を進めていた又兵衛軍でしたが、途中で薩摩が加勢に加わり、西郷隆盛に指揮された鉄砲隊が又兵衛を撃ち抜いたことで勝敗は決します。

 

ここで、来島又兵衛は自害し、長州軍は総崩れになります。

 

久坂玄瑞と寺島忠三郎の最期

長州軍の敗北を悟った久坂玄瑞や寺島忠三郎は鷹司邸(たかつかさてい)に侵入、そこに立てこもり天皇に直訴できるように鷹司に取り成しを頼みます。

しかし鷹司はこれを拒否、取るべき手段がなくなった久坂玄瑞と寺島忠三郎はここを最後の死に場所と決め自刃。

 

この時、久坂と寺島はお互い刺し違えて自害したとも伝えられています。

これが松下村塾で学んだ2人の最期です。

 

久坂は享年25歳、文との結婚生活は7年という短さでした。

 

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入江九一の最期

この時、入江九一も久坂らと共に鷹司邸に侵入して奮戦していました。

そして、久坂が自決を決めた時に入江も共に死のうとします。

 

しかし、久坂は入江に対して「この場を脱出して、殿に今日の事を伝えてほしい」と頼みます。

久坂から後を託された入江九一は何とか鷹司邸から脱出を試みますが、敵兵の槍に付かれ重傷を負い、邸内に戻って自刃したと伝わっています。

 

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まとめ

京都に軍勢を派遣することに慎重で、朝廷からの退去命令にも従おうとしていた久坂玄瑞。

来島又兵衛らの暴発を抑える目的で軍に加わったのかもしれませんが、結局は又兵衛の暴発を止めることができませんでした。

 

この戦で長州藩は久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎という若き志士を失っただけではなく、御所(朝廷)に弓を引いた朝敵となり、厳しい状況へと追い込まれていきます。

 



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