松陰と交流の深い人物に、宮部鼎蔵がいます。

肥後藩出身で、山鹿流兵法を修め藩の軍学師範を勤めていました。

宮部とは、どのような人物なのでしょうか。また、松陰との関わりについても紹介していきます。

 

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肥後勤皇党の中心人物

幕末において肥後藩はどのような立場だったのでしょう?

藩内は、勤王党、時習館党、実学党の三派に分かれおり、なかなか藩論を統一することができずにいました。

 

有能な人物が多く地位や力もある肥後藩でしたが、明治維新の主要藩になれなかったのは、藩内の足並みが揃わずフットワークが鈍くなってしまったからではないでしょうか。

宮部は、勤王党を支持し、国学者・林桜園の影響を受けた思想でもある尊王攘夷を掲げていました。

 

松陰との出会い

嘉永3年、長州藩出身の若者が宮部を訪ねてきました。

それが松陰です。

 

松陰は、四カ月間をかけて九州を遊学中で、見聞を広げるため九州各地の著名な人物に面会していました。

そして二人は、すぐさま意気投合します。

 

その後江戸へ出ることになった宮部は、同じく藩主に従い江戸へ赴任してきた松陰と再会します。

当時江戸には、来原良蔵などの人物も滞在しており、時世について語り合い、友情を深めるのでした。

宮部や松陰にとって、とても充実した日々だったに違いありません。

 

宮部との約束を命がけで守る松陰

江戸での仲間たちは皆志高く、東北旅行を計画するのでした。

旅程は、水戸~会津~秋田~津軽であり、著名な人物に会い、鉱山を見学、外国船を見るという大旅行でした。

ここで一つ問題がおきます。

 

松陰の手形手配が間に合わなかったのです。

当時、藩外へ出かける場合は、通行手形を藩から得なければなりません。

藩の許可の無い外出は、脱藩となり死罪にもなります。

 

しかし松陰は仲間との約束の日を守ることを優先し、手形のないまま旅に出かけるのでした。

友人との約束のためには命も顧みない松陰。

ますます宮部との絆は強くなったのでした。

 

ちなみに、江戸へ戻った松陰は死罪こそ免れたものの、士籍剥奪・世禄没収の処分を受けます。

それにしても松陰の行動にはいつも驚かされます。

 

宮部の最期

その後、宮部は各地の志士たちと交流します。

三条実美が総督である勤皇親兵(全国三十二藩・三千の兵士が選抜された)では総監を勤めるなど、尊王攘夷派のリーダー格になっていくのでした。

 

しかし宮部の最期は突然訪れます。

池田屋を新撰組が襲撃したことで有名な池田屋事件。

 

宮部はその場に居合わせ、新撰組との戦闘に及びますが負傷し、最後には自刃します。

池田屋事件は維新が一年早まったとも、遅くなったとも言われる大事件でした。

 

宮部ほどの大物が、この事件によって歴史の第一線からいなくなったことを考えると、納得できますね。

 



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