戦国最後の戦・大坂夏の陣では、真田信繁を筆頭に豊臣方に付いた人物が数多く戦死していきました。

その中には、信繁の息子・幸昌(大助)のように若年にしてその命を散らせた者もいます。

 

秀頼の小姓・木村重成もその1人です。

 

重成はその堂々とした立ち振る舞いから、若年にして周囲から一目置かれるほどの存在でした。

容姿に優れ、長じては刀・槍・馬術に長けた立派な武将に成長した彼は、後世「秀頼四天王」の1人に数えられるほどになりました。

 

そして、重成と同じように秀頼の下で大いに活躍した武将に、後藤又兵衛(基次)がいます。

又兵衛は黒田官兵衛に仕えていましたが、息子の長政と折り合いが悪く、出奔し諸国を流浪していたところを大坂城に招聘されたという経歴を持っていました。

 

そんな又兵衛を、重成は師と仰いだと言われています。

又兵衛と重成、彼らの大坂城での出会いが戦国時代の終焉をどのように彩ったのでしょうか?

 

今回は、木村重成の短い生涯と後藤又兵衛との師弟関係についてお話ししようと思います。

 

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木村重成と後藤又兵衛との関係

木村重成が生まれたのは1593年頃で、父は利休十哲に数えられる木村重玆(しげこれ)、母は豊臣秀頼の乳母となった宮内卿局(くないきょうのつぼね)という豊臣家ゆかりの家柄に生まれました。

 

彼は秀頼とほぼ同い年であるという縁から、幼い頃から秀頼の小姓として仕え、秀頼が家督を継ぐと、重成も側近として豊臣家の重要な会議にも顔を出すようになります。

 

まだ20歳に満たない年齢でありながら、重成は秀頼配下の生え抜きとしては破格の厚遇を受けていました。

 

しかし、時は江戸幕府の時代。

家康・秀忠ら徳川将軍家は戦国の残る権威・豊臣家の存在を完全に消さない限り戦国の世は終息しないと考え、機を見ては秀頼を滅ぼさんと考えていました。

 

1611年(慶長16年)、家康と秀頼は二条城にて会談を行いましたが、家康は幼かった秀頼が立派に成長した姿を見て「自分の野望はこの男がいる限りそう簡単には達成できそうにない。」と彼の資質に感服すると同時に、危険視するようになりました。

 

同じ頃、黒田長政の下から出奔した後藤又兵衛は、紆余曲折を経て黒田家に再仕官しないかと持ち掛けられましたが、結局実現しないまま浪人生活を送っていました。

 

2人が出会うのは1614年(慶長19年)、家康が方広寺の鐘銘に難癖をつけて豊臣家を滅ぼそうと決意した時のことです。

豊臣家の家臣・大野治長は幕府がいよいよ本格的に豊臣家を滅ぼそうとしていることを知ると、各地にあぶれている浪人を招聘して幕府に対抗する準備を整え始めました。

 

浪人であった後藤又兵衛もこうして大坂城に入ったのです。

 

又兵衛と重成はこの僅かな期間で邂逅し、交流を深めたのでしょうか?

 

重成は武勇に優れてはいたものの、生まれた時代のせいで未だ初陣を飾ってはいませんでした。

そのため、周囲の年長者からは「戦に出たこともないくせに偉そうにしよって。」と馬鹿にされていました。

 

重成は直接口汚く罵られることも多々ありましたが、その度に笑顔で無視していました。

 

やがて大阪冬の陣が始まり、重成は又兵衛と共に大坂城の東側・今福を任されることとなりました。

重成はそこで歴戦の勇者である又兵衛に「自分は若輩ゆえに戦闘経験に乏しい。そのため、どうか戦闘に際しては存分に引き廻しお頼み申し上げたい。」と告げたのです。

 

又兵衛はこの重成の態度に感心し、以後彼に目をかけるようになります。

重成にとって、又兵衛や信繁というような歴戦の勇者は憧れの人物だったようです。

 

年長者に気に入られて引き立てられるというのは現代においても大事な才能の1つとされます。

重成は目上の人を敬う気持ちが強く、憧れた人に対しては素直に教えを乞うという謙虚な姿勢があったようですね。

 

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大坂冬の陣での活躍

戦闘経験がない重成でしたが、又兵衛と共に今福を任されることとなりました。

今福は低湿地帯で田んぼが広がる地域。

 

豊臣軍はそこにある今福村に3カ所の堀切と4重の柵を建てて防御の構えを見せていましたが、そこに幕府軍は城を築くために佐竹義宜率いる1500の兵を送って今福・鴫野(しぎの)の奪取を命じました。

 

11月26日夜明け、佐竹隊は攻撃を開始。

結果、防柵は第四まで占領されてしまい、守将の矢野正倫および飯田家貞は戦死してしまいました。

 

そこにまず、重成の援軍が佐竹隊に攻撃を仕掛けました。

重成の攻撃により、佐竹隊は少し後退し戦況は膠着状態となりました。

 

そこで秀頼は又兵衛に救援を命じ、それによって戦況は豊臣軍が優勢になりました。

これを受けて、大和川を挟んで鴫野村に陣取っていた上杉景勝・堀尾忠晴・榊原康勝隊が中州まで進軍し豊臣軍に銃撃を加えたため、豊臣軍も撤退し決着はつきませんでした。

 

今福の戦いについては、豊臣軍も幕府軍も当事者に対して重く賞賜を与えています。

将軍・徳川秀忠は佐竹家中の5名に対し、感状と褒美を与えています。

 

一方、重成はこの戦いで数に勝る幕府軍と対等に渡り合ったことでその名を全国に知られることとなりました。

 

その後、豊臣軍は周囲の砦を全て放棄し、真田信繁が築いた出丸を拠点として防戦の構えを見せます。

この出丸が、いわゆる「真田丸」です。

 

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重成もこの戦いに参加し、12000の兵を率いて井伊直孝・松平忠直隊と戦っています。

最初、幕府軍の前田利常隊が信繁隊の挑発に乗ってのこのこと攻めてきたところに集中砲火をくらい大打撃を与えられました。

 

それにつられて井伊・松平隊が攻めてきた際に、重成はこれらの部隊に攻撃を仕掛けました。

この戦いでも武名を挙げた重成は、さらに名声を獲得していきます。

 

真田丸の攻撃部隊には、信繁の甥である真田信吉、真田信政も参加していました。

幕府軍から真田の家紋である六文銭が見えると、重成は信繁に配慮して「この戦は必ず和議になるから、くれぐれも信吉・信政を間違って撃たないようにしてくれ。」と配下に命じたとも言われています。

 

信繁や重成の活躍もあって、冬の陣で幕府は豊臣を滅ぼすことができませんでした。

結果、両者は和議を結ぶこととなり、この時、重成は岡山で秀頼の正使として徳川秀忠の誓書を受け取り、その進退が礼にかなっていると称賛を受けています。

 

重成の最期

和議の後、徳川方は大坂城の堀を全て埋めてしまい、真田丸も破棄。

大坂城は防御の術を失ってしまいました。

 

城に籠もる事が出来なくなった豊臣軍は城を出撃。

 

1615年(慶長20年)、重成は豊臣軍の主力として長曾我部盛親と共に八尾・若江方面に進軍し、若江で藤堂高虎・井伊直孝隊と交戦しました。

 

藤堂隊を打ち破ると、重成は散開していた兵を集めて昼食を取らせました。

この際、「兵は今疲れているから再度抗戦したら壊滅は必至です。」と諫められましたが、「この程度の勝利は物の数ではない」として戦闘を継続させました。

 

続く井伊直孝隊との戦いでは、川手主水を討ち取るなど奮戦しましたが、やがて直孝自らが陣頭指揮を執り始めると木村隊は連戦の疲れを見せ始めました。

重成は家臣の制止を振り切って槍を取ると自ら突撃を開始しましたが、敵わず討ち死にしました。

 

享年23歳でした。

 

最期については諸説ありますが、いずれにしても直孝は重成の死に感服しました。

家康に重成の首が届けられた時、重成の頭髪には香が焚き付けられていたことから、最初から死を覚悟していたとして稀世の若武者だと称賛されました。

 

まとめ

人間の中には若いうちから世に出て志を果たす者もいれば、遅咲きの太華を咲かせる人物もいます。

重成は間違いなく前者でしょう。

 

生まれた時代が違えば、彼も或いは長生きして青柳と平和に老後を過ごすこともできたかもしれません?

ただ、これが彼の運命だったのでしょう。

 

現代では若者が将来が見えないといって悲観しきってしまうことがとても多いと聞きます。

しかし、重成は絶望的な状況の中で最期まで諦めずに生き方を貫き通し、結果として後世にまで名を知られることとなるのです。

 

重成の生涯を振り返ると、長生きするばかりが人間の幸せではないのかもしれないと感じてしまいますね。

 

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