大坂の陣で豊臣家に協力した武士は、真田信繁や長宗我部盛親のように大名格のエリートだった者ばかりではありません。
豊臣家は既に多くの大名から見放されていたことから、地に落ちた浪人や不遇を託っていた大名崩れ、そして若き主君・秀頼の数少ない朋友や近習を頼みとするほかありませんでした。
そんな中で、豊臣家は徳川家によって理不尽な難癖をつけられて滅んでいきました。
その悲劇のせいか、大坂の陣で豊臣家に協力した武士達の中には後世になって注目され、語り継がれている人物も多いです。
今回お話しするのは、類稀な剣術の腕を持ちながらも一夜の失態で汚名を着せられた薄田兼相(すすきだかねすけ)です。
彼は謀略の時代には似つかわしくない人物だったのですが、いったいどのような活躍をしたのでしょうか?
ヒヒ退治で知られた岩見重太郎(いわみじゅうたろう)
一般的なヒヒ退治説
薄田兼相の前半生は謎に包まれていますが、通説では山城国或いは筑後国の出身で小早川隆景の指南役だった岩見重左衛門の次男として生まれた岩見重太郎が、隼人の元々の名前だと言われています。
薄田兼相(すすきだかねすけ)の他に薄田隼人(すすきだはやと)と呼ばれることもあります。
薄田兼相は父の影響で幼少期から剣術を学び、「鞍馬八流」という奥義を取得したとされています。
そんな中、父が同僚の広瀬軍蔵という人物に殺されてしまいました。
そこで重太郎は仇である広瀬を追って刀一本で諸国を流浪したと言われています。
この時期のエピソードとして、重太郎は道中数々の化物を退治していったと伝わります。
中でも有名なのが、ヒヒ退治のお話です。
ヒヒ退治の説には諸説ありますが、おおざっぱに言えばヒヒの為に生け贄(いけにえ)となっていた娘の代わりに重太郎が生け贄えとなり、ヒヒを一刀両断したという話です。
これは重太郎の武勇を示すこのエピソードですが、中には次の紹介するような一風変わった説も伝えらえています。
もう1つの説
広瀬を追って野里の村(大阪市西淀川区野里)にたどり着いた重太郎はある奇妙な噂を耳にします。
この頃、野里の村では秋の実りの季節になるとヒヒがせっかく育ててきた稲を根こそぎ奪い去っていくという事件が起きていました。
困った村人達が住吉大社に「ヒヒを退治してください」とお願いしたところ、次の日に野里に立ち寄った代官が神からのお告げを伝えに来ました。
『ヒヒを鎮めたければ、ある限りの供え物と汚れのない村娘を差し出すことだ。正月の16日、いけにえとなる娘に白羽の矢が立つ。』
このお告げを信じ、野里では毎年正月の16日になると村娘を差し出してヒヒの怒りを鎮める日々を送っていました。
しかし、この年にいけにえとなった娘は棺から抜け出してしまいました。
そこに彼女と恋仲であった男性とその仲間達が現れ娘を救出します。
彼らは毎年罪もない娘達が犠牲になることを許せず自ら立ち上がったのです。
ちょうどそこにヒヒの大軍が現れます。
男達はヒヒ達を落とし穴にかけて銃や火で応戦しました。
すると、ヒヒがなぜが人の言葉をしゃべって「熱い、熱い!」というではありませんか。
よく見ると、ヒヒは決して獣なんかではなく、お告げを伝えに来ていた代官がその正体だったのです。
男達は代官をその場で殺してしまいますが、どんな理由であれ役人殺しは重罪です。
男達はそこでうまく周囲の追及を逃れるためにこんな噂を野里の村に流します。
「やあやあ、憎っくきヒヒをあの岩見重太郎が成敗してくれたぞ!」
「我々は彼の剣術に感じ入った。いざ、弟子入りだ。お供致そうぞ!」
こうして、この地では岩見重太郎のヒヒ退治伝説は村の若者が自分の罪から逃げて村を去るためにデマがまことしやかに伝えられていくのです。
以上のお話は所詮民間伝承の域を出ないので、当時の岩見重太郎の知名度がいかほどのものだったかは推し量りかねますが・・・・(笑)。
さて、紆余曲折を経て結局重太郎は1590年(天正18年)には天橋立で広瀬を討ち果たすことに成功します。
この話も、「天橋立の仇討ち」として語り継がれています。
仇討ちを果たした重太郎は叔父の薄田七左衛門の養子となり、薄田重太郎となったと言われています。
しかし、これも別の説では父の重左衛門がそもそも「薄田重左衛門」だったとされており、その出自には謎が多いのです。
実はそもそも岩見重太郎と薄田兼相が同一人物ではないとする説もあるくらいです。
彼に関する確かな記述は、豊臣秀吉の馬廻衆として3000石を領したとするところから。
父が小早川隆景に仕えたこと、仇討ちの年代が秀吉の天下統一期と重複することを素直に考えると、この時点で兼相は30代くらいでしょうか?
馬廻衆だったことも含めて、同じ馬廻衆だった真田信繁と同僚或いは先輩だった可能性もありますね。
橙武者というあだ名の意味は?
秀吉に仕えた後の兼相の動向については実はよく分かっていません。
しかし、、徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見した1611年の時点で禁裏御普請衆(きんりぎょふしんしゅう)に名があることから、国持ちの大名ではないながらも旗本のような形で豊臣家に仕え続けていたのだと考えられます。
おそらく、彼が秀吉に仕えた時期は既に天下統一がほぼ成し得ていたため、持ち前の剣の腕を振るうこともなかったのでしょう。
或いは父のように剣術指南役として近習していたのかもしれません。
いずれにせよ、彼はそれほど注目されるような地位にはいなかったようです。
そして1614年、徳川家康は豊臣家に対し方広寺の鐘銘に難癖をつけて戦を始めようとしますが、大名にも見限られていた豊臣家は、冒頭でお伝えしたように真田信繁ら浪人を集めて対抗します。
秀頼の近習だった兼相もこの戦には当然参加しており、浪人達を指揮する立場にありました。
冬の陣では、兼相は兵700を率いて大阪湾に近い木津川口砦の博労淵(はくろうぶち)の守備を命じられています。
そんな中、幕府軍の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)による博労淵砦への攻撃が開始されるのですが、この時、兼相は何をしていたかというと、何と前日から遊郭に通っており砦を留守にしていました。
主将不在の守備隊は当然統率が取れないままにあっさりと倒されてしまい、かくして博労淵砦は陥落したのです。
また、同日に野田・福島で水軍を率いていた大野治胤(おおのはるたね)もまた九鬼守隆らに敗北し、大坂城はさらなる危機に陥ってしまいました。
治胤は悪天候に気をよくして敵を甘く見ていたことから大敗してしまっていたのです。
この知らせを聞いて、豊臣家では迂闊な兼相、治胤を指して「橙武者(だいだいむしゃ)」と揶揄するようになりました。
橙とは正月飾りに使う蜜柑のことで、酸味が強く飾りくらいにしか使えないという意味で「見掛け倒し」という皮肉を込めて名づけられました。
大事な戦の最中に油断した兼相の落ち度は、弁明の余地がありませんでした。
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名誉挽回をかけた奮戦と最期
その後、冬の陣は真田信繁の真田丸での奮戦によって和睦が結ばれますが、その5ヶ月後には大坂城は堀を全て埋め尽くされた状態で再び大坂夏の陣が始まります。
関連記事⇒真田丸とは?大坂城にあった難攻不落の出城の場所と仕組み!!
籠城は不可能と判断されたため、豊臣軍は城の南方から正面切って戦うしかありませんでした。
この時、兼相は後藤又兵衛、明石全登、木村重成らと共に先陣として出陣していました。
しかし、兼相は濃霧によって進軍が遅れてしまい、結果として8時間の遅延の後に彼が到着した頃には第一陣の又兵衛が戦死してしまいました。
兼相は前回の遊郭事件の汚名を返上するために奮戦し、幕府軍は徐々に押し返していきます。
兼相は折れた刀を棄てて槍に武器を持ち替え、槍が折れたら剣に持ち替えて、次々と敵兵を斬り伏せていきます。
そこに川村新八という男が現れて馬上の兼相を倒そうとします。
兼相は新八の攻撃をよけて反撃しましたが、兜によって刀がはじかれてしまいます。
兼相に組み付いて馬から振り落とそうとする新八。
そこに同じく水野配下の中川島之介が兼相の馬を槍で突いたので、馬がのけぞって兼相は馬から落ちてしまいます。
兼相はそれでも体勢を崩さずに新八と島之介の2人を押し倒しますが、状況を見かねた勝成の小姓・寺島助九郎に足を切り落とされ、体勢を崩した兼相はその場に倒れてしまいます。
新八、助九郎がその隙に兼相を刺し、とどめに新八が首を討ちました。
無双の剣豪らしい、壮絶な死にざまでした。
兼相の享年は不明ですが、重太郎と兼相が同一人物なら50代くらいでしょう。
しかし、異説では23歳の若武者だったとする説もあります。
まとめ
薄田兼相の生涯はその殆どが講談などの民間伝承から端を発する話によって知られており、そのせいもあって彼の人物像は今一つ統一した見解が現れません。
そもそも、岩見重太郎が架空の人物であるとの説から薄田兼相もまた実在しないとは言わないまでも、その人物像はかなり脚色されたものだと考えるべきでしょうか?
兼相はどちらかというと戦国武将というよりは宮本武蔵のような流れ者の剣豪を彷彿とさせるタイプの人物かもしれませんね。
しかし、彼の遊郭事件は現代の歴史マニアも喜んでイジるところとなっているようです。
たった1回の素行不良でそれまで築いた信頼が完全に崩れ去るというのは、いつの時代も変わりません。
芸能人や政治家なんかはその典型例ですよね?
私達一般の民衆も、後世に後ろ指を指されないように生きていきたいものです(笑)。