日本の過去の風習に側室というものがあります。

正室が第一夫人であれば、側室は第二夫人、第三夫人という扱いです。

 

江戸幕府を開いた徳川家康には正室・側室合わせて二十人ほどの妻がいました。

 

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側室として

『英雄色を好む』と言う言葉がありますが(英雄は女好きという意味)、徳川家康もまさしくその通り。

子供も十一男、五女の大所帯となります。

 

そんな徳川家康の側室のひとりが阿茶局です。

阿茶局は徳川家康よりも12ほど歳下。

 

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父親は武田信玄から今川義元へと主を変え、そこで一度結婚し、子どもも授かっています。

しかし、夫はすぐに戦死し、23歳の若さで後家となりました。

 

そして徳川家康に見初められて側室となっています。

 

阿茶局の性格

では何故、家康が後家の阿茶局を側室に迎え、そして数いる側室の中で彼女の名が知れ渡っているのでしょう?

当時の女性には世継ぎ(子供)を生むことが1番に求められました。

 

しかし阿茶局は徳川家康の子を産んでいません。

にも拘わらず大きな信頼を得たのは、彼女の器量の良さであると言われています。

 

才色兼備なうえに武士のたしなみである馬術や弓術が優れていたといいます。

 

実際に30歳の頃、女性ながら豊臣秀吉と争った小牧・長久手の戦いに参戦したというのです。

身籠っていた阿茶局はここで流産し、子供をを産めない体になったそうです。

 

その後、亡くなった西郷局の代わりに徳川秀忠の母親を務め、徳川秀忠の娘が入内するときにはその母代わりとして上洛しています。

 

主から絶大な信頼を勝ち得ない限りありえない待遇です。

もしくは誰もが納得する家柄なのか?。

 

しかし、阿茶局の背後には何もないのです。

強力な実家の権力を背景にした発言権があるわけではなく、徳川家康の信頼のみで奥を取り締まる役に任ぜられます。

 

いえ、むしろ権力とのつながりがない阿茶局だからこそ、ここまでの寵愛を受けられたのかもしれません。

また重く用いても増長しない謙虚さを阿茶局は持っていたのでしょう。

 

これが、あの警戒心が人一倍強い徳川家康が、重く用いた理由のひとつにあげられると思います。

なにせ徳川家康は正妻に迎えた築山殿に、今川家の血統を笠に着て勝手放題され、嫡男に切腹を申し付けねばならないほど手を焼いたという苦い思い出があります。(最終的には死罪にしていますが)

 

派閥や血筋のしがらみのない、人としての魅力だけで輝く阿茶局は、徳川家康にとって救いだったのかもしれません。

 

大坂の陣での和睦交渉

阿茶局は1614年の大坂・豊臣方との冬の陣での和睦交渉の大任を与えられています。

側室という立場でありながら徳川家の代表として外交の場に立ったのです。

 

これは前代未聞の抜擢です。

 

もちろん豊臣方の外交交渉役が淀の妹の常高院という女性だったからということもあるでしょう。

さすがに相手が女性1人に対し、徳川方は本多正純が担当では格好がつかなかったということもあります。

 

しかし、それにしても交渉役に抜擢されると言う事は、阿茶局は頭が良く、大役を任せるに相応しい器だったということです。

その結果、見事に大坂冬の陣は和睦という形で終結します。

 

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出家を禁じられる

大坂夏の陣で豊臣家は滅び、やがて天下を獲った徳川家康にも寿命が訪れます。

阿茶局は側室でただ1人、剃髪して尼になることを許されず300石の禄を与えられて将軍を補佐するよう臨終の徳川家康に頼まれたと言われます。

 

時の天皇からは従一位を授かり、徳川秀忠が亡くなった後にようやく出家し、正式に雲光院と号しました。

 

この逸話からも分かるように、阿茶局は数いる側室の中の1人というよりも、政治力を持ち、家康や秀忠の精神面での支えとなる参謀のような人物でした。

阿茶局は女性でありながら、素朴で実直な人柄を愛する徳川家康に認められた戦国時代の英雄のひとりと呼べるのではないでしょうか?

 

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