戦国時代の女性は政略結婚や人質など、政治的な思惑に振り回されるのが常でした。
そして、ひとたび戦が始まれば、戦国武将の妻として毅然とした態度で夫や子供を戦場に送り出さなければいけません。
現代よりもはるかに自由が少なく、思った事を素直に口に出せない時代。
その時代を生きた女性の逸話からは、日本の女性の強さや魂のようなものを感じることができます。
真田信繁の姉・松
真田信幸と信繁の姉・松は年があまり離れていなかったこともあり、仲が良い兄弟だったと言われています。
その松に真田信繁が送った手紙。
それは大坂夏の陣の開戦前に書かれたものでした。
そしてこの手紙は、『もう自分はこの世にいないと思ってくれ』という信繁から松に宛てたお別れの手紙でした。
詳細記事⇒真田信繁が姉・松と小山田茂誠(しげまさ)に出した最後の手紙!
真田信繁の正室・竹林院
真田信繁の正室は、豊臣秀吉の家臣で名将の誉れが高い大谷吉継の娘。
女性は家系図などに名前が記されない事が多く、当時の名前はハッキリしていませんが、竹林院という法名が今に伝わっています。
この竹林院が大坂の陣に息子の幸昌を送り出す時にかけた言葉。
それは武士としてのあるべき姿を示すものでした。
詳細記事⇒真田信繁の正室竹林院の性格と子供幸昌にかけた言葉!!
真田信繁の娘・お梅
大坂夏の陣で真田信繁が最後の戦いを迎えるにあたり、気がかりだったのが幼い娘・お梅の存在。
信繁は娘を路頭に迷わすことはできないと考え、ある人物にお梅を保護してほしいと申し入れます。
しかし驚くことに、信繁がお梅の保護を申し入れた武将というのは、激戦を繰り広げた敵方の武将でした。
詳細記事⇒真田信繁が死の直前に子供(阿梅・お梅)を託した意外な人物!
真田信繁の妻・きり
真田信繁の正室は大谷吉継の娘・竹林院。
しかし、大河ドラマ真田丸では正室ではなく、側室のきりがヒロイン扱いとなっています。
そこにはどんな狙いがあるのでしょうか?
詳細記事⇒真田信繁の側室きり(長澤まさみ)が真田丸ヒロインの理由!!
真田信幸の妻・小松姫
真田昌幸の長男にして真田信幸は、知名度は低いですが信繁に勝るとも劣らない武将だと言われています。
その信幸が妻に迎えたのが徳川家康の家臣、本多忠勝の娘・小松姫。
小松姫は猛将と呼ばれた父譲りの性格で、義父である昌幸に刃を向けることもありました。
織田信長の正室・濃姫
美濃のマムシと言われた斉藤道三の娘にして、織田信長の妻となった濃姫。
歴史ドラマなどでは、濃姫は信長と一緒に本能寺で亡くなるというストーリーが目立ちます。
しかし、ここで1つ疑問に思うのが濃姫は信長と一緒に本能寺に宿泊していたのかという事。
中国地方に出兵する信長が正室(妻)を連れて本能寺に泊まっていたとはちょっと考えにくいですよね?
茶々(淀殿)
秀頼の父親は石田三成?大野治長?
織田信長の妹・お市と浅井長政の娘・茶々は、豊臣秀吉の側室となり秀頼を生みます。
しかし、大の女好きで知られる秀吉ですが、子供ができたのは茶々1人だけ。
そのため、この秀頼の出生には多くの疑問が残っています。
詳細記事⇒豊臣秀吉の側室茶々(淀殿)と石田三成の怪しい噂!!
ねねと茶々
豊臣家が滅亡した原因は、茶々が我が子かわいさに徳川家に傾く時勢を読めなかったからだと言われています。
一方で秀吉の正室であったねね(高台院)は時代が徳川の世になっていく事を冷静に見極めていました。
身分が低かった頃の秀吉を支え天下人にまで押し上げたねね。
そして、ヒステリックでプライドが高かったと言われる茶々。
この2人の関係はいったいどんな感じだったのでしょうか?
詳細記事⇒豊臣秀吉の正室ねねと淀殿(茶々)の関係は良好だった!?
黒田長政の妻・糸姫
黒田長政は豊臣秀吉の家臣であった蜂須賀小六の娘・糸姫を妻に迎えます。
しかし、時代が豊臣から徳川に移り変わる中で長政は、糸姫を離縁して徳川家康の養女・栄姫を妻に迎えます。
これを機に、黒田家と蜂須賀家は長年にわたり絶交することになりますが、長政からしてみるとそれ以上に徳川家康と誼を通じることが重要だったようです。
大蔵卿局
茶々の乳母であり大野長治の母親。
茶々が絶大な信頼を置いていた大蔵卿局とはどういった人物だったのでしょうか?
詳細記事⇒大蔵卿局と茶々の関係!!淀殿の乳母は大野治長の母!!
阿茶の局
徳川家康の側室で、家康から絶大な信頼を得た阿茶の局。
子供を授かることはありませんでしたが、女中をまとめ上げるなど男性顔負けの政治力を発揮していきます。
詳細記事徳川家康の頼れる側室・阿茶局!!大坂の陣での和議の功績!!